壺齋散人の 映画探検
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そこのみにて光輝く:呉美保



この映画を見ると、そこに描かれている日本が溝口健二の生きていた時代に逆戻りしたような感じに打たれる。溝口の描いた日本では、女が男の食い物にされていたわけだが、この映画の中の日本も、女を食い物にする男がのさばって生きている。食い物にされた女は、溝口の時代にあってもけなげに生きていたが、この映画の中の日本でも、女は女なりの誇りを持って生きてはいる。その最低限の誇りが、見るものになにがしかの安堵感を与えてはくれる。

この映画の原作は1980年代の半ばに書かれており、その時代はまだ好景気の最中だったわけだが、そうした好景気の中にすでにこのような貧困が忍び寄っていたということを、改めて感じさせる。それはそれとしてやはり、この映画は平成時代の日本を映し出す鏡のような役割を果たしていると思う。日本のある意味でよき時代であったものが終焉し、おぞましい日本が復活しつつある。この映画はそんなことを感じさせる。

この映画の中の女主人公は、体を売って身をしのいでいる。そんな女に一人の男が惚れる。娼婦のまごころに打たれるというのは、昔から笑いばなしの種扱いされたことだが、この映画のなかでは、それが笑い話にとどまらない。女は女なりに必死に生きているのだ。だからそんな女にまごころを感じるのも、それを笑い話の種にするのも、男のまごころ次第だ。そんなまごころを、女は自分から欲しがっているわけではない。自分は自分なりに精一杯生きているのだ。そんな女の自尊心が伝わってくる。

この女を食い物にする男は、人間の屑というべきなのか、それはよく判らない。判っているのは、女の弱みに付け入って、それを食い物にする男が、平成の日本には存在するということだ。女を食い物にするのは、悪党ばかりではない。実の父親まで娘を食い物にする。この映画の場合には、娘にセックスの相手をさせるわけだから、食い物にするというより、快楽の相手をさせるといったほうがよいかもしれぬ。いずれにしても、女は体をぼろぼろにされるだけでなく、心までぐちゃぐちゃにされるわけだ。

そんな女の行状をわかっていながら、その女に惚れる男は、どんな人間なのだろう。これはただの同情ではない。ある種の恋愛感情だ。他の男に抱かれるばかりか、父親の性欲まで始末しているこの女を、男がどうして愛することが出来るのか、普通の人間には理解の範囲を超えることだろう。だが、キリストのような崇高な人間なら、それを理解することができるかもしれぬ。だがこの映画に出てくる男は、そんな崇高な人間ではない。どこにでも居るような平凡な人間だ。その平凡な人間が、女の罪深き行状に目をつぶり、彼女を全面的に受け入れて、愛する。こんなことが一体可能なのか。この映画を見た人は、そのように感じて不思議な気持に捉われるに違いない。

こと筆者について言えば、不思議な感じに捉われたというよりは、なんともいえない不快感に襲われた。もしこれが現実を反映しているとするなら、いまの日本はかなりあやういところまで落ちてしまったということになる。





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