壺齋散人の 映画探検
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今井正「どっこい生きてる」 敗戦後の混乱を見つめる



日本の映画人が敗戦直後の日本の混乱を正面から描くのは、戦後かなり経ってからだ。そこには進駐軍の強い意図が働いていたと思われる。敗戦による混乱を描くよりも、軍国主義から解放され民主主義が実現した喜びを描くべきだ、というような進駐軍の意向が、日本の映画人に作用して、戦後の混乱を正面から描くことをためらわせたフシがある。

黒澤は、1947年に「素晴らしき日曜日」を、引き続いて「酔いどれ天使」や「野良犬」を作って、戦後日本の姿を映し出していた。だがそれらは、正面から、しかも批判的な視点から映し出していたとはいえない。その点は、1946年に「靴磨き」を世に出したイタリア映画界とはかなり事情が異なる。日本映画が、敗戦後の日本の混乱を批判的な視線で描いたのは、今井正の「どっこい生きてる」が最初の本格的試みといえるのではないか。この映画が作られたのは1951年で、敗戦からかなりな時間が経過していた。

進駐軍は、民主主義の伝道者を気取って、日本の映画界が民主主義を謳歌するような映画を作ることは奨励した。今井の「青い山脈」や黒澤の「わが青春に悔いなし」は、そうした民主主義のプロパガンダ映画と言ってよい。そうした映画を、今井はおそらく嬉々として作ったのだと思うのだが、黒澤の場合には複雑な気持ちがあったろう。そうした意気込の違いが作品に反映されるのは自然なことで、「青い山脈」は今見ても感心させられるのに対して、「わが青春に悔いなし」はぎごちなさのようなものを感じさせる。傑作とはいえない。

1951年にもなれば、進駐軍の対日政策にも大きな変化が現れ、それが映画の現場にも影響を及ぼしたのだと思う。そういう空気の変化を踏まえて、今井は「どっこい生きてる」を作ったのだろう。この映画は、敗戦直後の日本の混乱を正面から描き出し、それに対して無策な政治を告発している。非常に政治的メッセージに富んだ作品だ。

この映画のプロットは、デ・シーカの「自転車泥棒」とよく似ている。失業者のあせりをテーマにしていること、その失業者がやっと仕事にありついたと思ったら、商売道具の自転車を盗まれ、途方にくれた挙句に他人の自転車を盗んでつかまってしまう、そうした父親の姿をみていた息子が、情けない余りにすすり泣く、というのが「自転車泥棒」の粗筋で、一人の失業者の境遇を通じて、その時代に多くのイタリア人が直面していた絶望的な貧困をあぶり出し、あわせて戦後イタリア社会の荒廃振りを記録にとどめたものだった。

今井のこの映画も、失業者をテーマにしている点、その失業者がやっとありついた仕事からあぶれてしまう点、生活苦から泥棒を働く点、失業者の絶望に子供を含めた家族を絡ませている点、それらに「自転車泥棒」との共通性を見ることができる。違うところは、デ・シーカが社会の混乱の描写や政治の無策への批判といった政治的な傾向を抑え気味にしているのに対して、今井の場合にはそれらをストレートにぶつけていることだ。この映画は、するどい社会・政治批判の映画という意味では、ある種のプロパガンダ映画といってもよい。

時代設定は明示されていないが、おそらく敗戦直後だと思う。東京の下町、画面からすると南千住あたりだと思うが、そこのバラックに暮らす四人家族の運命がこの映画のテーマだ。彼らはそのバラック小屋からたたき出されてしまうのだが、ほかにいくところがない。そこで妻子だけが田舎に身を寄せて、夫の見通しがつくのを待つということになる。ところが身を寄せた田舎も貧困にあえいでいて、この妻子の口を養うだけの余裕がない。

一方亭主のほうは、ニコヨンでその日暮らしの境遇に陥っている。彼は山谷にある職安から失業対策の仕事をもらうのが唯一の命綱で、仕事にありつければよいが、でなければ人寄せの仕事に飛びつき、それもだめならくず拾いをして糊口をしのいでいる。そんな彼に常雇いの仕事の口が舞い込んでくる。しかし次の給料日までしのげる金がない。そこで仲間のニコヨンたちから寄付を貰ってなんとかしのごうとするが、その金は誰かに盗まれてしまうし、彼を胡散臭く思った雇い主からは追っ払われてしまう。そこへ妻子が舞い戻ってくるのだが、彼には妻子を養う能力はない。何しろ泥棒でもしなければ、木賃宿の料金も払えないのだ。そこで思い余った男は、妻子と心中する決意をするのだが・・・というような暗い話が続き、見ている方としては気が滅入ってしまうのである。

暗い話が続く中で唯一明るいのは、飯田蝶子や木村功演じるニコヨン仲間との人間的な触れ合いだ。彼らもまた主人公同様その日暮らしのどん底の状態にいるが、それでも生きる希望を失わない。貧しければ貧しいなりに、貧しいもの同士が助け合ってなんとか暮らしている。「どっこい生きてる」という題名は、社会の底辺にいるそんな彼らの有様を形容しているようだ。

飯田蝶子の演技がよい。この映画の中の彼女は善意の塊のように描かれているが、そういう善意というものは、なかなかスマートに演じられるものではない。だが飯田蝶子がそれを演じるとさまになる。この女優にはなんともいえないオーラのようなものがあって、それが観客を自分に自然と感情移入させてしまうのだろう。

この映画には前進座が総出で出ている。前進座は左翼の集団で、とかく目の仇にされていたから、それが前面に出た映画などは、なかなか考えられなかったところ、やっとこの時点になって、このような映画に揃って出てきたわけだ。今井もまた共産主義者だったから、この映画は共産主義者たちによる現状変革の政治的メッセージだと受け止められたむきもある。そんなわけでこの映画は、日本の映画史上ユニークな位置を占め続けるだろうと思う。

なお、筆者は一時期南千住界隈で仕事をしていたことがあるので、この映画に出てくる光景は懐かしく思えた。冒頭のシーンに出てくる橋は千住大橋で、そこを渡ってきた都電がたどりつく場所は南千住車庫だろう。そこで都電から降りた連中が向かう先は山谷で、そこにある失業対策事務所かなんかに大勢の人間が押しかけ、仕事にありつこうと必死になる。そういう光景を見ると、日本にもこんな時代があったのだと、しみじみ感じさせられる。





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