壺齋散人の 映画探検
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今井正「山びこ学校」 無着成恭の生活綴り方運動



今井正の1952年の映画「山びこ学校」は、生活綴り方運動で知られる無着成恭の実践記録を映画化したものである。無着成恭は、戦後山形の師範学校を卒業した後、山県県内の僻地の中学校の教師となり、そこで生徒の貧困に直面しながら、民主主義教育に邁進した人物である。彼は、生徒の低い学力を高める方法として、生徒に綴り方を書かせる運動をはじめ、その運動の経緯を記録にして出版したところ、それがベストセラーとなった。綴り方運動は、戦前の寺田寅彦たちの運動など前例もあって、国民の関心を集めていたこともあり、無着の運動は大いに注目を集めたわけである。民主主義の理念を普及することを使命に思っていた今井が、それを映画化した次第だ。

この映画の製作には日教組もからんでいる。今井自身が共産主義者として理念的なところへ持ってきて、それに日教組が加わったわけだから、この映画は実に理屈っぽい印象を与える。言ってみれば、民主主義の普及のためのプロパガンダ映画だ。だいたいプロパガンダ映画というものは、退屈なものになるのが道理だが、この映画にもそういうところが見られる。無着本人に扮した木村功が、生徒たちと人間的な交流を深める過程が描かれるのだが、木村はしゅっちゅう大声を張り上げて説教ばかりしている。それが山形弁であることが多少の救いになっているが、観客としては、生徒たちと一緒に説教ばかり聞かされていては屈託するというものだろう。

こんなわけでこの映画には白々しいところがあるのだが、当時の東北の農村の貧困振りを描き出しているところは、さすがに映画の職人今井らしく、迫力に富んでいる。家が貧困なために人買いに売られる子供とか、母親に死なれて一家離散し、年老いた祖母と二人でどうやって生きて行くか悩んでいる子供、といった具合に、子供の絶対的な貧困振りがリアルに描き出されている。そうした子供たちを抱えながら、ほかの子供たちには弱い者に力を貸すよう説得し、子供たちがこれに応えて自分のできる限りで手を差し伸べる。皆で協力して肉体労働にいそしみ、その賃金で以て少しでも足しにしてやろうというわけだ。そういう光景は、今井が好きらしい原始共産社会のイメージを髣髴させる。実際この映画は、日本の一部に存在する貧困を実像以上に強調し、社会主義的な思想を広めるものだとして、日本の支配層からは眼の仇にされた。

絶対的な貧困が生徒の学力にも影響を及ぼす、ということを訴える場面がある。この学力低下をなんとか食い止め、生徒の考える力を養う為に綴り方運動が始まるのだが、その学力低下を象徴するものとして、生徒の語彙が極端に少ないことが上げられている。生徒は漢字がよく理解できない上に、単語の意味をよく理解していない。その一方忠義とか献身とか封建道徳を思わせる言葉は知っている。これは日本社会のゆがみを如実に反映したものだ。そういって無着ら教員たちは溜息をつくのである。この映画に出てくる教員たちは、みな若く、民主主義的な教育実践に励んでいるということになっている。

映画のラストシーンは、生徒たちに笑いについて考えさせる。生徒たちの周辺では、笑いを見ることがほとんどないという。心から笑っている人はいない。いるのはへつらいを笑いの表情で示す人ばかりだ。これは世の中がどこか狂っている証拠だ、そんなふうに主張するところで映画は終わるのだが、こういうプロパガンダ映画には、芸術性に満ちた終わり方は、なかなか見つからないだろう。


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