壺齋散人の 映画探検
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川島雄三「女は二度生れる」:不見転芸者の生き方



赤線地帯や遊郭を好んで描いた川島雄三が、「女は二度生れる」では、泥水稼業の女の生き方に焦点を当てた。時代設定は明示されていないが、公開された1961年のあたりだと思わせる。売春防止法が施行されたあとで、売春斡旋が犯罪になったという認識が、映画の登場人物(料理屋の女将など)の口から発せられるところからそうわかる。そうした売春禁止の時代背景のなかで、一人の不見転芸者の生き方を描く。不見転芸者とは誰とでも寝る芸者という意味だが、そんな芸者が売春防止法の施行後も当分のあいだ生き残っていた、そんな歴史的事実を気付かせてくれる映画である。

舞台は靖国神社の近所ということになっているから、富士見町あたりだと思われる。その路地の一角にある芸者置屋に若尾文子演じる小えんという芸者が、朋輩たちと雑魚寝しながら芸者人生を生きている。芸者であるから一応客の前で芸を披露するが、本業は芸を見せることではなく、体を売ることだとばかり、小えんは毎晩のように男を代えて自分の体を抱かせている。この辺は、自分の体といえども売り物であるから、売れる間に精一杯売って置こうというドライな打算が透けて見える。一方で小えんは、自分の体を他人の快楽の手段としてさしだすだけでなく、自分自身が快楽の主体として、積極的に男を誘惑したりもする。とにかくセックスを核心に成り立っているような女である。

映画の序盤は芸者としての小えんが描かれる。小えんは毎日違う男に抱かれるが、その中で一人自分から惚れてしまった男ができた。フランキー堺演じるさえない板前で、自分の金ではなく他人の金で小えんを抱いたのだ。小えんには変な母性本能みたいなものがあって、自分より弱い立場にいるものに同情し、その同情が恋慕につながるという変った癖がある。だがフランキーとの恋は、あっさりと終わる。フランキーが信州のわさび屋の養子になって自分の前から姿を消してしまうのだ。

置屋の女将ともども警察の手入れを受けたことがきっかけで、小えんは芸者をやめ、銀座あたりのキャバレーに出る。そこで以前の馴染み客だった山村聡と再会し、山村の妾になる。妾と言っても、山村は大して甲斐性のない男だから、安アパートの一室をあてがわれ、月々の手当も雀の涙。それでも小えんはたいした不満を感じずに山村に尽くす。この女には意外と家庭的なところがあるのだ。しかし山村は年をとりすぎていて、心の安らぎは与えてくれるが、ほとばしる性欲は鎮めてくれない。そこで小えんは、十七歳の少年を誘惑し、高まる性欲を鎮めるのだ。少年を相手にすると、小えんはまるで保護者のような口のききかたをするし、セックスも自分のほうで音頭をとることができる。

山村との生活は、貧しいながらも小えんには気に入っていた。ところがその山村が病気をこじらせて急死してしまう。身の処し方に窮した小えんは、古巣に戻って再び芸者稼業に励むようになる。だがもうはや以前のような気持にはなれない。一度堅気になってしまったうえは再び自分から泥水につかる気になれないのと、自分の容姿ももう昔とは違う、自分も年相応に老いてしまった、という達観もあった。そんな小エンにとってもっともショックだったのは、久しぶりに再開した元学生が、いまは出世して頼もしくなり、小えんの気を引くほどなのだが、こともあろうその元学生で小えんの思い人が、小えんを接待相手の外国人に抱かせようとしたことだ。さすがの小えんも、この申し出を受けるわけにはいかないと感じるのだが、そこで料亭の女将がしつこく相手の言うことを聞くように迫る。買収斡旋禁止の話が出てくるのはこのシーンでだ。

小えんは、次第に世の中から疎外されてゆく自分を感じる。世の中に居場所がないというふうに感じられるのだ。それはとてもさびしい。そのさびしさを紛らわせるために、小えんはあの少年を再び誘い、一緒に上高地に遊びにゆこうとする。しかし、上高地に向かう列車の中で偶然、家族と一緒にいるフランキーを見た小えんは、自分のなかのなにかが崩れてしまったような気持に陥る。そこで上高地には元少年ひとりで行かせ、自分は列車に乗って戻ることを選択する。どこへ戻るのか、とりあえず宛てはない。そんな宙ぶらりんな感覚のなかで映画は終わるのである。

こんなふうに要約すると、この映画は一芸者の不幸な半生を描いたものだというふうに受け取れるようだが、かならずしもそうではない。小えんは、自分がさびしいと思ったことはあるようだが、不幸だと思ったことはないというふうに伝わってくる。たしかに、いくつか失恋をしたりはするが、そのことでヤケになるわけでもない。よくあることだと軽く受け流している。人生なんて、こんなものだわ、と。

小えんを演じた若尾文子がなかなかよい。彼女はこの時28歳の女ざかりで、日本の女の魅力に輝いていた。着物の着こなしにも色気があるし、表情がものを言っているうえに、声にも張りがある。山村がその声を褒めるシーンがあるが、たしかに彼女の声は男をうっとりさせる声だ。

置屋の中で芸者たちが取っ組み合いの喧嘩をするシーンが出てくる。「幕末太陽伝」での左幸子と南田洋子の喧嘩ほどではないが、女の喧嘩のおぞましさは十分に伝わってくる。川島は、女が尻をまくり髪を振り乱して喧嘩するところを見るのが好きだったのだろう。



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