壺齋散人の 映画探検
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雁の寺:川島雄三



川島雄三の1962年の映画「雁の寺」は僧侶たちの堕落を描いたものである。筆者が子どもの頃は、親戚中の菩提寺が禅寺だったこともあり、坊さんというものは謹厳実直で、妻帯しないのは無論、仙人のように清らかな生活を送っているものと考えていた。それは言い換えれば退屈な生活ということになるが、世の中には毎日退屈な生活が続いても一向に気にならない奇特な人もいるのだと、子どもながら感心したものだった。その後、宗派によっては妻帯を認めるところもあり、真宗などは毛坊主と言って、頭に毛の生えた坊さんが俗人とほとんど違わない生活を送っているさまを見もしたが、それはかなり成長した後のことで、幼い子どもの頃は、坊さんと言えば欲望とは無縁な尊い人たちだと思い込んでいたものである。ところが、この映画では、坊さんといえども欲望の点では俗人と変らず、かえって他にすることがない分、放蕩三昧に耽っている羨ましい境遇の人たちなのだと暴露したのである。そんなこともあってこの映画は、日本の仏教界から大きな反発を受けた。

この映画の原作者である水上勉は、子どもの頃に京都の禅寺に小僧として仕え、そこで辛い毎日を送りながら坊主のふしだらな生活ぶりを見せられ、その時の悔しい思いを小説の形にしたということである。映画の中に出てくる小僧は、若狭の乞食谷というところの出身で、家が貧しい為に口減らしのために寺に小僧に出されたということになっているが、それは水上の境遇そのものを物語るものらしい。水上自身は寺での辛い生活に耐えられず、寺を脱走して坊主にはならず作家になったわけだが、映画のなかの小僧は、坊主の扱いに深い怨恨を抱くに至り、ついに坊主を殺した挙句、他人の葬式のために用意された棺桶のなかに坊主の遺骸を一緒に収め、二人ともに地中に埋葬してしまうのである。

舞台となった寺は狐蓬庵という禅寺である。これは京都に実在する寺らしいが、実際のモデルとなったのは相国寺の塔頭瑞春院である。瑞春院は水上が小僧として奉公した寺で、寺内には雁を描いた障子があった。題名の「雁の寺」はそんな因縁から来ている。

三島雅夫演じる住職(法主さんと呼ばれる)の慈海が檀家の画家で雁の襖絵を描いた男が死んだ際に、その妾を譲られる。日頃から里子というその妾(若尾文子)に眼をかけていた慈海は喜んで彼女を自分の妾にする。こうしてすけべ坊主と若い女との淫乱な毎日が寺の中で展開する。それを見せられる観客は、寺とはいったい何のためにあるのか、改めて考えさせられるだろう。観客以上に面食らうのはこの寺の小僧(高見國一)だ。この小僧は坊主から下人のような扱いを受けるばかりか、目の前でいちゃいちゃされ、果たしてこれが仏に仕えるもののすることかと反感を持つ。一方坊主のうは、美しい妾こそ自分にとっての仏であり、彼女を相手に楽しむことこそ功徳なのである。だが女のほうは年老いた坊主が相手では性欲が満たされたのを感じることができず、小僧を誘惑したりする。とにかく仏道からはずれた行いというべきであろう。

こんな具合で、寺という小さな世界で住職は絶対権力者であり、小僧は修行の身というよりも住職の身の回りの世話をする下人のようなものであり、妾は好色な住職の下半身の世話に専念する浮かれ女のような存在である。この寺は大寺(相国寺がモデル)の塔頭ということになっているから、節目節目に本山にお世辞を言わねばならぬが、それをのぞいては、この寺の住職は小さな世界の独裁者と言ってよい。独裁者といっても、この小さな世界だけが彼の領分なので、そこを出れば誰も彼の存在など気にしない。だから彼が忽然と姿を消してもまともに心配するものは一人としていないのである。小僧のしたことはおそらく完全犯罪になるだろう。

坊主が読経する場面が出てくるが、その際に禅寺の坊主が妙法蓮華経を読む。筆者は禅寺とは般若心経とか観音経とかを読むもので、法華経は天台宗や日蓮宗だろうと思い込んでいたのだが、どうなのだろうか。この映画の禅寺は臨済宗ということになっている。臨済宗でも法華経を読むのか。教えてほしいところだ。

慈海は慈念によって棺桶の中に収められた後、寺の裏山にある墓地の一角に土葬される。この映画は戦前の京都を舞台にしているので、その頃の京都にはまだ土葬が行われていたのだろう。戦前ということで、小僧が通う中学校での軍事教練の様子も紹介される。小僧はこの軍事訓練が嫌で、その日には学校を休んでしまう。それを不審に思った教師が保護者の慈海を訪ねて意見を聞くと、慈海は「禅寺の子に兵隊ごっこは無用じゃ」と言う。これは1962年の映画の中だから言わせられるせりふであって、戦前に禅寺の坊主がこんなことを言ったら間違いなく破門になっただろう。

慈海がいなくなったことで、寺には別の坊主がつなぎの住職としてやってくる。慈念は自分のした行為の意味を考える為に雲水の旅に出る覚悟をする。ひとり取り残された里子には行くところがない。彼女もまた慈念同様口減らしのために子どもの頃から奉公に出され、帰るべき家がないのだ。





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