壺齋散人の 映画探検
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川島雄三「しとやかな獣」:軽佻浮薄の時代



川島雄三には露悪的なところがあるが、1962年の映画「しとやかな獣」はその露悪趣味がもっとも露骨に表れたものだ。この時代はクレージーキャッツの大流行に象徴されるような軽佻浮薄の時代であって、世の中は伝統とか道徳とかいうものとは無縁な様相を呈していた。そういう時代に川島はすっかり不道徳な感情に染まってしまった日本人を覚めた目で描き出した。あたかも同時代のフランスでは、スペイン人のルイス・ブニュエルがフランス人の不道徳振りをコメディタッチで描き出していたが、川島は日本人として同じ日本人の不道徳振りを笑い飛ばしたわけである。

映画のテーマは金である。世の中のことはすべて金で計算できる、金があれば何でもできるし、欲しいものは何でも手に入る。逆に言えば、金がなければ何事もままならない。金のない人間は生きている価値はない。そういう観念に凝り固まった人間たちが、金をめぐって互いに化かしあったり、ひきつけあったりするありさま、それをコメディタッチで描き出したのがこの映画だ。

映画は晴海の団地に住む四人家族を中心に展開する。この団地の部屋は娘の旦那が妾宅として買い与えたものを、娘の家族が押しかけてきて住みついたということになっている。そのため旦那は他に妾宅を手配しなければならなくなる。その旦那に娘を世話したのは父親だ。父親は娘を金づるくらいにしか考えていないのだ。娘だけではない、息子のほうも会社の金を横領してその一部を父親に上納している。つまりこの父親は二人の子どもを猿回しの猿よろしく、自分の思い通りに操って金をもうけているというわけである。

息子は会社の経理員(若尾文子)とつるんで会社の金を横領していた。この女は息子が得意先から預かった金を息子とぐるになって横領しその後始末を巧妙にしていた。ところが会社の社長が横領の事実を知って息子を追求し始める。その追求のプロセスで、とんでもないことが次々と明らかになる。この女は息子のほかに会社の社長まで抱きこんでせっせと金を横領し、それを隠蔽する為に税務署員まで抱きこんでいたのだ。こうして女は一千万円ほどの金を溜め込み、それを元手に旅館の経営に乗り出す。

という具合で、この映画には金に目のくらんだ様々な人間たちが出てくるのだが、それらの人間すべてに増してこの女こそが一番利口な人間だったということが明らかになる。金に目のくらんだ人間たちのなかで最も露骨なのは父親(伊藤雄之助)だ。彼がこんなにも浅ましい金の亡者になったのは、戦後の混乱でひどい思いをし、この世に信じることのできるのは金だけだと思うようになったためということになっているが、それにしても子どもたちを利用してあくどく金を稼ぐなど、あまりにもせこい。そんなせこい、つまり矮小な人間たちばかりがこの映画には出て来るのだが、そういうせこさは彼らだけが帯びていたのではなく、時代全体がせこかったのだ、というメッセージがこの映画からは伝わってくる。こんなせこい奴らなら、利口な女から化かされるもの当たり前だ、というわけである。

どういうつもりか、バックミュージックとして謡曲が使われている。冒頭の部分では仕舞いまでついている。半ばほどでテレビをかけようとする妻に向かって夫が「うるさいからラジオにしろ」という場面が出てくるが、その時にラジオから流れ出すのも謡曲だ。どうやら「海人」の一節らしい。軽佻浮薄の時代の精神と伝統ある能とがどう結びつくのか、よくわからぬが、川島が映画で謡曲を使ったのはこれが始めてではないか。

娘の旦那(山茶花究)が娘に向かって、「お前のおやじは女衒だ」というシーンが出てくるが、1962年と言えば売春防止法が施行されたあとで、公式には女衒は存在しなかったはずだが、言葉としてまだ生きているということは、非公式にはまだまだ健在だったということだろう。

この映画の中の若尾文子は実に色気に富んでいる。目が潤んでいるし、声につやがある。悪女としての知性も感じさせる。彼女としてはもっとも美しく映っている映画ではないか。



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