壺齋散人の 映画探検
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男はつらいよ:山田洋次



「男はつらいよ」シリーズは、1969年から1995年までの26年間にわたり48本の作品が作られた。日本はもとより世界的に見ても、息の長い人気を誇ったシリーズで、ギネスブックにも登録されたほどだ。なぜこんなにも長い間、高い人気を誇ったのか。それを明らかにするためには、改めて全作品に目を通したうえで、多角的な視点から構造的な分析を施す必要があると思うが、筆者は一映画ファンに過ぎないので、とりあえず、第一作を見た限りでの印象を述べてみたいと思う。

この映画は、家を飛び出して放浪をしていた主人公の寅さんが、20年ぶりに故郷へ帰ってくるところから始まっている。故郷とは東京の下町葛飾柴又で、柴又帝釈天の門前町だ。そこには寅さんの叔父夫婦が生活して居るということになっている。妹のさくらが叔父夫婦の家に同居しているが、両親はすでに亡くなっていて存命してはいない。そこで寅さんは、気のいい叔父さん夫婦の好意に甘えて居候することとあいなるが、なにせ世の中の尺度にあてはまらない人間なので、次から次へと騒動をまき起こしては、周囲の人びとをやきもきさせる。これは、シリーズ全体に共通した特徴で、それが第一回目から現れているわけである。

この簡単な説明からも伺われるように、この映画は基本的には、ある種の冒険物語である。冒険物語の原型は、少年を主人公にした、放浪の物語という形をとる。少年が親元を飛び出して放浪の旅に出、旅先で様々な冒険をしながら少しずつ成長する。そして最後には親のところに戻ってくる、というのがよくあるパターンだ。こうした物語が人びとの共感を呼ぶのは、少年が大人になる過程をテーマにしているからだ。その過程はイニシエーションと言い替えてもよい。少年のイニシエーションと言うのは、どんな民族にも普遍的に受け入れられていることがらなので、それをテーマにした物語は、普遍的なものとして人びとの心に訴えかける、という特質を持っている。

この映画の場合には、寅さんは外見上は少年ではないし、またこれから放浪へ旅立つのではなく、放浪の旅から戻ってきたばかりである。そういう点では、普通の冒険物語とは異なっているように見えるが、寅さんは外見上は大人とはいえ、心の中は少年のように純粋で、彼が引き起こす騒ぎは、傍目には迷惑でしかないが、本人にとっては全身全霊をかけた真剣な行為なのであり、そういう意味では冒険そのものだ。

寅さんは、放浪の旅の途中でこうした騒ぎを引き起こすわけではなく、放浪から戻ってきた後で暴れまくるのだが、これは、放浪という言葉を広い意味で捉えなおせば、なんとなく解釈がつく。寅さんというキャラクターは、ある意味永遠の少年として造形されており、そういう意味では、彼の人生は終わりのない旅ということになる。冒険物語の中の少年たちは、冒険を通じて少しづつ成長し、やがては一人前の大人になってゆくわけだが、寅さんは永遠に大人になることのない万年少年なのだ。

そこで寅さんが何故、道化的な人物像として造形されているか、そのわけがわかる。イニシエーションのさなかにある少年は、やがては大人になるべき運命を背負ったものとして、まじめな行動を期待される。だが寅さんの場合には、永遠の少年としてそうしたまじめさは期待されない。それゆえ彼は、トリックスターとして中途半端な役柄を演じ続けることとなるのである。

この映画の面白さは、トリックスターとしての寅さんが、周囲との間で軋轢を引き起こし、そこからてんやわんやの大騒ぎを巻き起こすことにあるが、それは寅さんが永遠の少年として、世の中の秩序をひっくり返すことのできる立場にあることの反映だ。彼の行動は世の中の物差しとは決定的にずれているので、全く意識しないままに、そういうことができるわけだ。

普通は、大人の人間にこんなことをさせれば、いやみに見えるものだ。それをいやみに感じさせないのは、どたばたを演じているものが、世の中の基準からはずれた道化者とか、あるいは世の中の基準にまだあてはまっていない少年である場合に限られる。この映画のなかの寅さんは、永遠の少年でもあり、また道化でもある、というふうに見えるからこそ、いやみを感じさせることなく、どたばたを演じることが出来るわけであろう。

この映画にはもう一つ、寅さんの恋というテーマがある。この作品の場合にはお寺の住職の娘が寅さんの恋心を捉える。もしも寅さんが永遠の少年であったなら、恋をするのはおかしい。実際、正統派の少年の冒険物語では、少年が少女と出会うのは、恋人としてではなく、冒険のパートナーとしてだ。ところが寅さんの出会う女性は少女ではなく成熟した女であって、彼女らに寅さんが恋心を抱くのは、やはり性的な動機からということになっている。そこが寅さんの物語が並みの少年の冒険物語とは違うところなのだが、それはやはり、映画は娯楽としてもあらねばならぬという要請に応えたつもりなのだろう。でなければこの映画のシリーズが、あんなにも長続きはしなかったと思われる。


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