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山田洋次「武士の一分」:男の嫉妬と体面



山田洋次は、始めての時代劇として作った「たそがれ清兵衛」が成功したのに気をよくして、その後二本続けて時代劇を作った。「武士の一分」は、「隠し剣鬼の爪」に続く時代劇三作目である。この映画は、前二作と同様藤沢周平の短編小説を原作とし、舞台設定や人物像などに多くの共通点があるが、作品としてはいささか退屈なものに堕している。特に「たそがれ清兵衛」と比較すると、見劣りがする。「たそがれ清兵衛」は男女の愛をこまやかに描き、それに時代劇らしく武士の生活ぶりを丁寧に描いていて、それなりに現代人にも訴えるところが強かったが、この映画で描かれているのは、男の嫉妬と体面だ。そんなものは、時代劇としては無論、現代劇として描かれたとしても、よほどの力技がなければ、観客の感動は呼べないだろう。

東北の小藩で三十石の録を食んでいる平侍三村新之丞(木村拓哉)は、藩主の食事の毒見役をしているが、役目柄ながら運悪く毒にあたって失明してしまう。今日なら職務上の事故は公務災害という受け取り方をされるところだが、この時代にはそういう考え方はなく、失明して役にたたなくなった武士は、体よく始末されてしまうのが普通だったらしい。そこで妻の加世(檀れい)が、親戚の教唆もあって、夫の地位を守るために夫の上司を頼るのだが、そんな彼女を上司の番頭が弄ぶ。

事情を知った三村は、妻を寝取られたことへの嫉妬の炎と武士としての面子をつぶされたことへの怒りから、妻を離縁して、番頭に復讐することに拘る。しかし自分は盲目で、まともに立ち会っても勝てる見込みはほとんどない。それでも三村は復讐に拘る。そこは武士の一分にかかわることなのだ。というわけでこの映画の題名「武士の一分」は、武士の面子をさしているのである。

よそ目にはつまらぬ意地にこだわるように見えるが、三村にとって「武士の一分」は、武士としてのあり方以前に、人間としての自分のあり方にかかわることなのだ。それを単に意地などと言っては欲しくない。意地などという半端なことではなく、生き方そのものの問題なのだ。

というわけで、三村は番頭に果し合いを申し込む。三村は死ぬつもりだ。そのつもりで日頃仕えてくれた中間の年寄り(笹野高史)に最後の別れを告げる。だが、三村は運よく相手を倒すことができた。死ぬつもりで戦ったことが火のような気迫を生み、それが敵を圧倒したのだ。これには剣の師匠から受けた「死す、すなわち生くるなり」という言葉が支えになった。この映画にひとついいところがあるとすれば、この言葉の持つ重みだろう。

敵を倒したことで嫉妬が収まり、面子がたったところで、三村は離縁した妻を許す気になる。その気配を覚った中間の年寄りが、ひそかに手引きをする。こうして一度別れた夫婦が再び結ばれたところで、映画は終わるのだ。

こんな簡単な筋書きからも、この映画がかなりゆるいという印象は伝わってくるだろう。この映画には、ゆるみっぱなしのところばかりで、締まった部分が殆どないのだ。三村を演じた木村拓哉のいまひとつ締まりのない面貌のせいかもしれぬ。それに対して加世を演じた檀れいのほうは、なかなかいい雰囲気だ。



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