壺齋散人の 映画探検
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炎上:市川崑



市川崑は、文学作品の映画化でよい仕事をした。非常に多作な作家で、中には凡庸な娯楽作品も多いのだが、谷崎潤一郎の小説や、大岡昇平の「野火」などを、実に心憎く演出している。派手なところはないが、堅実な映画作りに定評があった。

「炎上」は、市川崑の初期の代表作で、三島由紀夫の小説「金閣寺」を映画化したものだ。原作については、金閣寺への放火という実話を題材にしたものというほか、内容はすっかり忘れてしまい、したがって市川崑の映画が原作をどのように扱っているのか、比較のしようもないが、原作者の三島はこの映画に満足したというから、基本的には原作に忠実だったのだろう。もっとも三島がこれを評価したのは、映画の内容ではなく、主人公を演じた市川雷蔵が気に入ったからだとする見方もある。三島の同性愛は周知のことだ。

金閣寺の放火事件は、戦後芸能系十代ニュースのトップを飾るものだった。放火されたのが1950年、今の形に再建されたのが1955年、三島が小説を書いたのが1956年のこと。市川崑が映画化したのは、1959年のことだ。だから、市川崑がこれを映画化したとき、観客のほとんどは金閣寺事件の概要やら、三島の小説のことを知っていたわけで、放火事件や小説の内容からあまり逸脱するのは、映画としては危険がともなっただろう。自然、事件の概要を再確認するような形に落ち着いたのだと思う。もっとも映画の字幕には、これは架空の話だと断ってはいるが。

今見ての印象としては、まず非常に暗い感じがするということだ。主人公の若い僧が、吃音のハンディを背負っている上に、心のどこかも病んでいるようで、実に暗い印象を与える。性格が暗い上に、行動が常軌を逸脱している。それは妄想のせいらしいのだが、なぜそんな妄想に駆られるのか、画面からは納得ある背景が伝わってこないので、見ていて異様な感じを受ける。原作では、若い僧が金閣に放火するのは、美に嫉妬したからだということになっていたようだが、映画からは、放火の理由についての納得できるような背景の描写はない。

映画には仲代達也演じるへんな学生が出てきて、これが市川雷蔵との間で議論をする。その議論と言うのが実に理屈っぽいのだ。理屈っぽさは、この二人の間ばかりでなく、映画のいたるところに現われてくる。たとえば僧侶とその母親との関係などだ。なにしろこの若い僧侶は、娼婦相手でも理屈にこだわるのだから、見ているほうとしては、唖然とさせられる。こういう理屈っぽさは恐らく原作にもあったのだろう。原作に忠実なあまり、その理屈っぽさを映画の中に持ち込んだのだと思うが、映画というのは、小説以上に理屈とは相性が悪いものなのである。

市川雷蔵は、この映画で一躍本格的な俳優としての名声を確立した。この俳優にはどこか抜けている雰囲気が付きまとっていて、それがまたよいところでもあるのだが、その抜けたところがこの映画のなかの役柄ではよく現われている。冒頭の場面で、検事たちから尋問をうけるシーンが出てくるが、そのときの表情などは、痴呆が強情を張っているような印象を与える。それに痺れを切らした検事の言い草がよい。お前は、戦後の法律で作られた黙秘権というものを使うつもりなのか、そんなことは考えないで、いさぎよくお上に降参して何もかも話してしまえ、と言うのだが、その検事の言い草と言うのが、戦後民主主義への皮肉として聞こえてくる。これも三島ならやりかねないところだ。

映画の舞台となった焼ける前の金閣寺は、スタジオ内のセットなのだろうか。そうだとすればかなり大規模なもので、金もかかったに違いない。あるいは、他の寺を借用したものなのか。いずれにしても、寺の建物はかなり古びていて、金閣のイメージは伝わってこない。第一造りが小さすぎるし、いささか安っぽい印象が伝わってくる。

その金閣が炎上するのを見た住職(中村鴈次郎)が、仏の裁きじゃ、と嘯くシーンがあるが、それは自分の芸者狂いを仏が罰したという意味のようだ。金閣寺の住職が妾を蓄えていたというのは、実際にあった話なのか、それとも三島あるいは市川の創作なのか、筆者は寡聞にして知らない。




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