壺齋散人の 映画探検
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鍵:市川崑



谷崎潤一郎が小説「鍵」を書いたのは1956年のことだが、その三年後に市川崑がそれを映画化した。原作は心理的な描写が多いことから、映画化には一定のむつかしさがあったと思うが、市川は原作を換骨奪胎することで、映画として見られるものにした。その分、原作の雰囲気が損なわれることになったのは致し方のないことといえよう。

原作との違いを一々あげつらってもしょうがないと思うが、作品の題名ともなっている「鍵」の取り扱い方が、どうも気になる。原作では、大学教授の夫が、妻に読ませることを目的にして書いた日記を鍵のかかる引き出しに保存し、その鍵をわざわざ妻の目につくことに置いたというふうになっている。いわば自分の秘密の入口をあける鍵、というような役割を持たされている。ところが映画では、妻が愛人を自分の家に導き入れるための鍵という位置づけになっている。つまり快楽の園への入口をあける鍵、になっているわけだ。

原作では、夫と妻の間柄は、日記の交換という形をとって、読者の前にさらけだされながら進んで行くわけであるが、映画では、その肝心の道具立てが省かれているために、夫と妻の、それぞれの心理的な動機が明らかにならないまま、妻が若い男と浮気をし、それを夫が嫉妬しながら、性的興奮を高められるという具合になっている。だから、それを見ているものの目には、妻はただの尻軽女であり、夫は間抜けな寝取られ亭主というふうに見えなくもない。妻を寝取られて、それを嫉妬しながら、なおかつ妻に向かって性的欲望をむき出しにする、獣のような存在に夫は見えてくるわけだ。

こんなわけだから、この映画は原作の雰囲気を再現することに成功しているとはいえないし、また、変態性欲を描いた作品としても、中途半端なところがある。変態性欲を描くやり方なら、ほかにいくらでもやりようがあっただろう。

それでも映画として一定の見所を持っているのは、やはり中村鴈次郎と京まち子という、男女それぞれ一世を風靡した名優の芸の賜物だろう。とりわけ京まち子は、眉毛を夜叉風に吊り上げ、怪しい雰囲気を醸しだしている。こんな怪しい雰囲気を演出できる女優は、そうざらにいるものではない。鴈次郎のほうも、古いタイプの好色で依怙地な老人をよく演じている。原作の大学教授は五十六歳となっているが、この映画の中の鴈次郎は七十歳くらいに見え、それが中年女である妻を相手に性欲を追求するというのだから、普通の映画なら破綻するであろうところを、鴈次郎の演技のために、独特のおかしさが成立してしまうのである。

鴈次郎と京まち子は、この映画と同じ年に、小津の「浮草」に競演し、雨の中のあの有名なシーンをはじめ、映画史に残る演技を披露した。この「鍵」のほうが先に公開されているが、その中での鴈次郎と京まち子のほうが、「浮雲」の中の二人より、老けて見える。特に鴈次郎のほうは、「浮雲」では、男の色気のようなものを感じさせたが、この映画の中では、好色で冴えない老人としか見えない。もっとも、意図してそう振舞ったのであろうが。

なお、この映画は当時の基準にしたがって成人映画に指定された。その理由と言うのがどうも、京まち子が裸体で入浴するシーンを生々しく映したということらしい。裸体で入浴するのは当然のことだから、それを猥褻だと感じるのは、今の基準ではありえないが、この映画の場合には、裸体の女と衣服を見につけた男が、一緒に湯船に浸かるシーンが出てくる。それなら今の人にとっても、やはりおかしいということになるかもしれない。裸の女と服を着た男が同じ風呂につかるというのは、普通は考えにくいことだから。




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