壺齋散人の 映画探検
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卍:増村保造



谷崎潤一郎の小説「卍」を筆者は、日本文学に聳える最高峰の一つだと思っているし、世界文学の舞台で日本文学を代表して渡り合えるものとしては、この作品が最も相応しいとまで考えている。それほど「卍」という小説は、日本的でかつ普遍的な文学性を帯びている。ということは、文学作品だからこそ、そのような優越性を主張できるわけで、これを映画化すると、その魅力のほとんどが失われてしまう、ということだ。だからこの小説の十全な映画化はありえないだろう。精々、原作のもつ雰囲気をなにがしかほど表現できるか、その程度が問題になるくらいだろう。

その困難な課題に増村保造が挑戦した。無論困難な課題であるから、原作の雰囲気を全面的に再現するというのは不可能に近い。原作のもつ他面的な要素のうちから、なにがしらの要素を取り出して、それにスポットライトを当てるようにして、微視的な美を表現するというくらいしか出来ない。増村の場合には、その微視的な要素を、女同士の同性愛、つまりレズビアンの愛にしぼることで、エロティックな雰囲気を醸し出そうとしたといえるのではないか。

日本では、歴史的に見て、レズビアンが社会的な主題となることはなかったし、芸術の分野でもあからさまな話題になることはなかった。それを谷崎は、小説の形で取り上げたわけだが、映画は映像芸術であるから、おのずから違った取り上げ方を要求するわけで、そういう意味では、エロティックな要素は映像と馴染み深いのであるからして、取り上げ方の視点としては間違っていなかったと言えよう。戦後の日本人は、男女の性愛の描写には相当慣れてきたが、同性愛の描写にはほとんど慣れていなかった。そんな日本人の前に、同性愛に特化したこのような作品を披露したわけであるから、それを見せられた日本人たちは、度肝を抜かれるような思いをしたに相違ないのだ。

同性愛をエロティックに描くとなると、とかく猥雑に傾きがちだが、そこは新藤兼人が脚本を担当することで、猥褻とかえげつなさとかいった要素を、いわば脱臭している。新藤は増村にとっては、溝口学校の先輩に当たり、また自身批判的な視点から同時代を描いた映像作家であるが、その新藤がこのようなエロティックな作品の脚本を引き受けたというのは興味深いことだ。ともあれ、新藤の参加があったことで、作品の芸術性が幾分かは担保できたといえるのではないか。

原作の語り手を岸田今日子が、そのレズビアンの相手を若尾文子が演じている。岸田は、例の巨大な目を輝かせながら、分厚い唇の間から色っぽい、しかも幼そうな言葉を吐き続ける。若尾のほうは、意外と豊満な肉体をくねらせながら、悪女を演じている。日本の映画の歴史の中で、若尾ほど悪女役が似合う女優はいないのではないか。山田五十鈴も悪女が似合ったが、山田の悪女は文字通りの悪女で、やや食傷させられるところがあるが、若尾の悪女はコケットリーでなかなか味わいが深い。その悪女がしかも豊満な肉体を持っているとあっては、見ているものとしては、圧倒されるばかりだ。あんな悪女なら自分も抱かれて見たい、と男なら誰でも思うのではないか。




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