壺齋散人の 映画探検
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鈴木清順「殺しの烙印」:ニヒルな殺人者



鈴木清順の1967年の映画「殺しの烙印」は、鈴木が日活をクビになった原因となったものだ。60年代の日活といえば、アクション路線で稼いでいたわけで、鈴木のこの作品はある意味究極的なアクション映画なのだが、だから日活路線に沿った作品のはずなのだが、何故か日活の社長を激怒させ、鈴木は一方的に解雇されたのだった。鈴木を応援するものは、一部の熱狂的鈴木ファンをはじめ多くいたようだが、彼らの応援は実を結ばず、以後鈴木は十年間にわたり、本格的な映画作りからはずれることになった。

この映画に対する見方は、色々あるだろう。筆者などは、これも鈴木のアクション映画の特徴である「田吾作もの」の一種だと考えている。鈴木の田吾作ものを筆者は、「田吾作ウェスタン」で代表させているが、この映画もそれと似たようなものだ。なにしろ主人公のニヒルな殺し屋が、炊き立ての飯の匂いが何よりも好きで、生きていることの実感はその飯を食うことだというのだから、それはまさしく田吾作根性の現われである。

田吾作ウェスタンの主人公たちは、さすらいの旅を続けながら意味のない殺人行為を重ねてゆく。この映画の中の主人公は、さすらいの旅をしているわけではないが、それと似たような根無し草的な生き方をしており、殺人を仕事とし、また生きがいにもしている。

この映画のふざけたところは、殺人に一切の意味や理由をもたせず、殺人そのものを目的化しているところにある。殺人者たちには、手腕や生きたかの見事さの度合いに応じてランキングがある。そのランキングはとりあえずは、過去の「業績」に従って付されるので、いわば殺人者たちに結果として付いてくるものなのだが、殺人者の中には、このランキングをあげることが目的化するという倒錯したものも出てくる。この映画に出てくる殺人者たちは、そうした倒錯した連中なのである。

宍戸錠がニヒルな殺人者を演じている。映画の初め頃には、彼は他人の依頼を受けて殺人をしている。一応ビジネスと言う形をとっているわけだ。ビジネスとはいっても、半分は趣味を兼ねているから、人を殺すことそのものが面白い。だから彼は、手当たり次第に人殺しを重ねるのである。そのうちに、妙な男が現れる。これは南原宏治演じる殺人者で、その世界では殺し屋ナンバーワンで通っている。一方宍戸のほうはナンバースリーである。

そこでナンバーワンとナンバースリーがランキングをかけて激突することとなる。まるでテニスマッチのようである。結果は相打ちで、宍戸も南原も死んでしまうのだが、なぜそうならねばならないのか、必然性はない。宍戸が勝ってもいいではないか、と観客に思わせる。というのも、宍戸はともかく南原のほうは、いかにも優男イメージで、殺し屋のイメージとは程遠い。その南原が、これはこわもてのイメージが強い宍戸と対決するところは、どうも腑に落ちぬ感じをさせられる。テニスマッチだって、技はともかく勢いに勝るほうが勝つではないか。南原と宍戸を比べれば誰でも宍戸のほうに勢いを感じるものだ。

というわけでこの映画は、殺しの快楽というべきものを純粋に快楽の視点から描いているのだが、一部ミスキャストがあるせいで、迫力を大分減じている。



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