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宮崎駿「崖の上のポニョ」:人間の少年と人魚の少女



宮崎駿の2008年公開のアニメ映画「崖の上のポニョ」は、人間の少年と人魚の少女とのふれあいを、暖かいタッチで描いたものである。冒険の途上危険な目に遭った人魚の少女が少年に助けられ、人魚として少年に大事にされているうちに、少年への気持ちが実って人間の姿に変わり、最後には人間の子として少年の家族に迎えられるという筋書きだ。

人間と異種動物とのかかわりがテーマであって、戦いとか争いの要素は一切ない。ひたすら、人魚が人間にあわせようとし、人間もそれを受け入れる。そして最後には、人魚が人間に変わることで、少年と少女とが異種動物間の垣根を越えて友情を確立するというものだ。こういうテーマは、とかくゆるくなりがちで、戦いの要素がないこともあって、単調に陥りやすいのだが、宮崎は全体が単調に陥らない工夫をすることで、スリルに富んだ、子どもでも楽しめる作品に仕上げている。

五歳の少年と少女の触れあいだから、恋愛の要素は全くない。子ども同士が、種の差異を超えて友情をかわすということになっている。動物と人間との触れあいをテーマにした物語には、鶴の恩返しを始めさまざまな伝説があげられるが、そうした伝説のほとんどすべてが、異種間の婚姻をテーマにしている。婚姻を通じて、人間と他種の動物が結ばれるというのは、日本だけではなく、世界中に流布している伝説パターンだが、このアニメ映画のように、異種間の友情、しかも男の子と女の子の間の友情をテーマにしたものは、ほとんどないのではないか。そう言う点では、ある種冒険的な試みだったわけだが、それを宮崎は破綻なく仕上げているのではないか。

とにかくこの映画には、悪人は一人も出てこない。最初のうちは、人間が人魚に変身したという男が出てきて、不可解な行動をするが、この男は、人魚の女性と協力して、泡から小さな女の子たちを大勢生み出したということになっている。崖の上の小さな家に住んでいる男の子にポニョと名付けられた人魚の子も、その男の子どもだったのだ。その子が、冒険心から人魚の世界を飛び出して、人間の世界と交流していることを知った男は、その子を取り戻そうとして、崖の家の周囲を水没させたりするが、それは人間に対する悪意からではなく、子どもを取り戻すための必死の努力ということになっている。彼は悪人ではなく、心やさしい父親なのである。

そして父親は、子どもの願いを聞き入れて、彼女を人間にしてやる。その小さな女の子を、男の子の家族が、一員として受け入れてくれるというところで映画は終わる。それが筆者のような老人の頭にも荒唐無稽には見えず、さわやかに見えるのだから、まして子どもたちにとっては、楽しい物語として映ることと思う。



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