壺齋散人の 映画探検
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風立ちぬ:宮崎駿



堀辰雄の小説「風立ちぬ」を、筆者が読んだのは高校生の時だから、内容は大方忘れてしまっていた。それでも、題辞のもとになった詩の一節「風たちぬ、いざ生きめやも」のことは覚えていたのだが、それがヴァレリーの詩の一節からの引用だということは失念していた。宮崎駿監督の新作アニメ「風たちぬ」を見ながら、ふとそんな過去の読書体験を思い出した。

この映画はしかし、「風立ちぬ」の忠実な再現ではない。堀の小説「風立ちぬ」から借りたのは、結核をわずらう女性と、彼女と励まし合う男性との、魂の交流というプロットだけであり、本筋は全く違う物語だ。それは、ゼロ戦の設計者として知られる堀越二郎の、プロの技師としての生き方を描いたものだ。その堀越に一人の女性が運命的に関わり合い、その女性との励まし合いを通じて、堀越二郎が技師としての天職を全うするという物語だ。

ゼロ戦と言えば、旧日本軍を象徴する戦闘機だ。その設計者の生き方をテーマにしたものだから、この映画は様々な反響を呼び起こした。宮崎駿さんと言えば、世界中の子どもたち夢を届けてきた人なのに、何故今になって戦闘機をテーマに選んだのか。宮崎さんにとって最後となるかもしれない作品が、日本の軍国主義を肯定するのは見るのは悲しい、といった声が、主にアジアの国々からあがった。

それに対して日本国内からは、おもに右寄りの勢力を中心に、ブーイングが巻き起こったという。ゼロ戦にせよ、その設計者の堀越二郎にせよ、日本精神のシンボルというべきなのに、その日本精神が正しく描かれていないというのである。

この映画が戦争を賛美するものでないことは、映画自体を見ればすぐにわかることだ。この映画はむしろ戦争を批判しているのだ。そこが右寄りの勢力には気に入らないのだろう。だから彼らがこの映画とその作者宮崎駿を目の仇にしているというのはよくわかる。

この映画のなかの堀越二郎は、仕事と愛の両方を、大事にする人間として描かれている。そしてその二つのことに、最期まで真剣に取り組んだ人間として描かれている。その結果、国は亡び、ゼロ戦は戦場に散って一機も戻らず、愛する女性は帰らぬ人となったが、二郎の前に夢となって現れ、「生きて」と励ます。二郎はその声に励まされて、これからも生きていくだろう、そう観客は感じて、救われたような気持になるはずなのである。

アニメであることを感じさせないほど、丁寧に作られている。背景の映像もほんとうの自然を見ているようだ。それは、このアニメが主に大人を対象にしていることの現れなのだろう。宮崎監督は、この映画を自己分析して、「時代に追い越された」といっているが、それは、未来ではなく過去を、もう一度見つめ直したいというメッセージのように聞こえる。

なお風立ちぬ云々は、ヴァレリーの詩「海辺の墓地(Le cimetière marin)」の一節を堀辰雄身が訳したものである。この詩は非常に長く、件の句を含む一節はその最後の部分だ。ここでその部分を、筆者も訳してみた。堀の訳をそのまま生かしながら。

  風立ちぬ・・・いざ生きめやも!
  我が書物は強風に煽られ
  波は岩にあたって砕け散りぬ!
  舞い上がれ めくるめくページよ
  砕けよ 波よ!打ち砕け 歓喜のうねりで
  帆がはためくこの静かな屋根を!

  Le vent se lève! . . . il faut tenter de vivre!
  L'air immense ouvre et referme mon livre,
  La vague en poudre ose jaillir des rocs!
  Envolez-vous, pages tout éblouies!
  Rompez, vagues! Rompez d'eaux rejouies
  Ce toit tranquille où picoraient des focs!

この短い一節の中のイメージが、そのまま映画のなかに取り込まれていることがわかる。また、別の一節では、アキレスと亀の逆説が言及されているが、その部分も映画の中に生かされている。

なお、上の絵は、二人が避暑地で再会する場面の一部だ。映画では、少年時代に出会った二人が、ここで運命的な再会をすることになっているが、小説「風立ちぬ」では、節子と言う女性がキャンバスを前に絵を描く場面が、冒頭に出てくる。




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