壺齋散人の 映画探検 |
HOME|ブログ本館|美術批評|東京を描く|水彩画 |動物写真|西洋哲学 |プロフィール|掲示板 |
![]() |
2009年のアルゼンチン映画「瞳は静かに(Andres no quiere dormir la siesta)」は、一少年が社会のありかたや人間の生き方について、しだいに学んでいく過程を描いている点では、一種の教養映画といえる。だが、主人公のアンドレスは、まだ十歳ほどの年齢で、社会や人間関係について学べるような柄では本来ない。ところがその幼い少年がいやでもそれらを学ばざるを得ないのは、彼の生きている社会が過酷なためである。そんなふうに感じさせる作品である。 アンドレスは、母親と兄との三人暮らし、父親は別居している。夫婦の仲が悪いからだ。母親は、別の男を家に連れ込んだりするので、おそらく婚外性交をしているのであろう。だが、経済的には夫に依存し、生活費をもらいに子供を使ったりしている。アンドレスは友達もいるし、性格的にもとくに問題はない。問題は不仲な両親がもたらすのだ。その両親のうち、母親が車にはねられて死んでしまう。なぜかアンドレスは、深い悲しみを感じないようだ。かれが感じるのは、父親と一緒に暮らすことの不都合さだ。彼は父親を愛していない。父親は粗暴だし、また抑圧的にふるまう。アンドレスは抑圧されるのがいやなのだ。唯一慰められるのは、父親と一緒に住んでいる祖母だ。祖母はやさしい。息子には遠慮があるが、アンドレスとその兄、つまり自分の孫たちは大事にする。そこがアンドレスにとって救いになる。 たいした変化は起こらない。もっともショッキングな出来事は、家の前で女性が暴力を振るわれる場面を、アンドレが窓越しに見ることだが、それはアルゼンチン社会の宿痾の象徴のようなシーンだった。この映画の中のアルゼンチン社会は、治安が乱れており、政治が混沌とし、人々が政府とか秩序といったものを信じられない社会なのだ。そうした社会で生きるには、相応の覚悟がいる。ちょっとした暴力は日常茶飯事だから、いちいち反応してはいられない。自分や家族を守ることが肝心な振る舞いなのだ。 この映画には、白人しか出てこない。先住民は影さえもうつらない。小生は、アルゼンチンについてほとんど知識がないが、メキシコやブラジルと比較して、アルゼンチンは白人の割合が飛びぬけて多く、有色人種や混血の人間は無視できるほど少ないのであろうか。それとも、有色人種がいることはいるが、映画で取り上げるほどの価値はないと思われているのか。その辺が知りたいところだ。 なお、原題は「アンドレスは昼寝をしたがらない」という意味だが、この映画の中の普通のアルゼンチン人は、昼寝が好きなようである。 |
HOME | 中南米映画 | アルゼンチン映画 |
作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2021 このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである |