壺齋散人の 映画探検
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イングマール・ベルイマン「不良少女モニカ」:神を恐れぬ奔放な生き方



イングマル・ベルイマンは、20世紀を代表する映画監督という評価が確立している。年表を見ると、第二次大戦直後から精力的に映画作りをしているが、広く知られるようになったのは、1952年公開の「不良少女モニカ(Sommaren med Monika)」である。この映画は、スウェーデンというヨーロッパの周縁部を舞台としていることや、一人の不良少女の神を恐れぬ奔放な生き方をテーマにしていることから、欧米の映画界にある種のセンセーションを巻き起こした。映画のかもし出すドライな雰囲気は、フランスのヌーヴェルヴァーグなどに大きな影響を与えもした。

原題の Sommaren med Monika は、「モニカとの夏」という意味だが、邦題に「不良少女モニカ」とあるとおり、この映画は一人の不良少女が恋人の少年と共に過ごしたひと夏を描いている。この少女はまだ17歳という設定で、すでに色々な男を知っている。それ故近所の子供たちから「不良少女」と罵られるのだが、それが大人たちの彼女への反感を代弁しているのは明らかなことだ。それほどこの少女は、倫理的に堕落して社会からつまはじきにされているのだが、当の本人は、それについて何ら悪びれるところがない。彼女は一瞬ごとに楽しければそれでよいのだ。だから、自分の屈託を慰めてくれる男となら、平気で寝てしまうのである。

そんなモニカを一人の少年が心から愛してしまった。この少年は、モニカほどではないが、やはり社会に反発するところがあって、働き口をやめ、家を飛び出して、モニカとともに父親のモーターボートに乗って、スウェーデンの自然の中に飛び出してゆく。この映画の殆どの部分は、この二人の少年少女が、モーターボートでスウェーデンの自然の中を存分に動き回るシーンからなっているのである。

映画の中のスウェーデンの風景が美しい。ストックホルムの町も、その近郊の自然も、どちらも美しい風景がすばらしい映像となって目の前に流れてゆく、そんな感じを抱かせる。スウェーデンといえば、森と湖の国といったイメージが強いが、ストックホルムの近郊はそれに海の風景が重なるので、実にバラエティに富んだ眺めが展開される。その美しい風景の中で、二人の少年少女がもつれ合うところは実に印象的だ。

モニカの不良ぶりは、彼女自身がそれを自覚していないだけに、衝撃的に映る。彼女にとっては、自分の欲望に従って生きることが大事なのであって、神に恥じない生き方とか、ましてや世間の常識に合せるとか、そんなことはどうでもよいことなのだ。とにかく、今のこの一瞬を楽しく過ごしたい、それだけが彼女の願いなのである。こうした考え方はとかく倫理的に問題とされ、映画でそのようなテーマが取り上げられるときには、その陰に道徳的な判断の介入することがままあるのであるが、ベルイマンの場合には、モニカの行動や思想を道徳判断の事柄にしてしまう積りは全くない。彼はモニカの生き方を、道徳的な問題としてではなく、自然な生き方の問題として捉えているところがある。

観客から見て一番の衝撃は、モニカが自分で生んだ子供の面倒を一切見ようとしないこと、今や夫となった少年が仕事で出張している間に他の男をアパートに連れ込んだりするところだ。モニカの不倫の現場を覗き見た少年は、それを受け入れることが出来ない。ところがモニカのほうは、一向に悪びれるところがない。彼女は男や子どもに束縛されるより、一人で自由に生きたいのだ。というわけで、モニカは夫となった少年と自分が生んだ子供をほったらかして、アパートを出て行ってしまうのだ。行き先が他の男のところであろうことは、画面からストレートに伝わってくる。

こういう映画は、いまでこそ別に珍しいものでもなくなったが、1952年当時の欧米人の目には、非常にショッキングに映ったようだ。映画に新しい視界を開いた記念すべき作品の一つと言えよう。

モニカを演じたハリエット・アンデルソンとモニカの恋人ハリーを演じたラーシュ・エクボルイが、ふたりともまだ子どもっぽい面影を残した顔に、少年少女らしいみずみずしい雰囲気を湛えていた。邦題が「少女」という言葉にこだわったのは、その辺に理由があるのだろう。



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