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冬の光(Nattvardsgästerna):イングマル・ベルイマン



イングマル・ベルイマンは、「処女の泉」で神の沈黙をテーマに取り上げたあと、立て続けに宗教色の強い映画を作った。「鏡のなかにある如く」、「冬の光」、「沈黙」からなる「神の沈黙」シリーズといわれる作品群である。このうち「冬の光(Nattvardsgästerna)」は、聖職者の信仰の揺らぎをテーマにした、非常に重い感じの作品である。

スウェーデンの寒村にある教会の牧師トマス(グンナール・ビョルンストランド)は、信仰の危機に直面している。自分自身の信仰に疑いがあるため、他人の信仰を導くことが出来ない。それどころか、自分を頼ってくる信者が悩んだ挙句自殺してしなうといった事態を呆然と眺めているだけである。そんな彼を、一人の女性マルタ(イングリッド・チューリン)が愛するのだが、その愛を彼は素直に受け入れられないばかりか、女性の心を傷つけるようなことばかりする。それでも女性は、一筋の光を頼りに彼を愛し続ける。

牧師が自分の信仰に揺らぎを感じ始めたのは、妻の死がきっかけだったと匂わされるのだが、なぜ妻の死が彼の信仰を揺るがしたのか、くわしいことは語られない。ただそれが彼にとって耐え難い経験であって、とても受け入れられなかったということだけが少ない言葉で暗示される。彼が耐え難い苦悩のうちでのた打ち回っているのに、神はそれを見ていたにかかわらず、何もしないままに沈黙していた。その神の沈黙が自分の信仰を揺るがしたのだ、というようなメッセージが伝わってくる。

信仰の揺らぎはますます激しくなり、牧師は聖職者の身でありながら、神の沈黙を呪うにとどまらず、神の不在を疑うようになる。神の不在とは、この世に神などはいないということであり、それに言及することは、自分が無神論者であることを告白することである。

そんな彼を、マルタはありのままに受け入れようとする。彼にどんなひどいことを言われても、見捨てたりはしない。彼の行くところには、どこでも付きまとっていくのだ。結局この無償の愛が、最後には彼を救うことになるのではないか、そう観客に感じさせるようになったところで、この映画は終わる。

人間の内面を描くことにこだわったベルイマンの作品のなかでも、これは最も精神的な色合いの強い作品であり、また聖職者の信仰の揺らぎをテーマにしていることで、きわめてポレミカルな作品である。こんな映画は、後にも先にもベルイマンが作ったこの作品以外にはないのではないか。宗教映画は一定の割合で作られてきたし、また神の沈黙とか信仰の揺らぎをテーマにしたものもないわけではないが、人々の信仰を導く立場にある聖職者の神への呪いを正面から取り上げた作品はほかに見ない。

神の沈黙といえば、福音書の中でキリストが十字架の上から叫んだという言葉、「神よなぜ、私を見捨てたまうたか?」が引き合いに出されるのが常だが、この映画のなかでも、この言葉は聖職者のトマスの口から発せられる。もっともトマスは、この言葉に続いて神を讃える言葉をつぶやく。トマスに神を呪わせたままで映画を終わらせるわけにはいかない、とベルイマンは思ったのだろう。

なお、原題の Nattvardsgästerna は聖体拝受者という意味であり、主人公の牧師トマスを指している。





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