壺齋散人の 映画探検 |
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「ニンフォマニアック」VOLⅡは、第六章から第八章までの三章からなる。導入部で女性の12歳の時の体験が語られる。その女性はオーガズムを覚えたあと、性感を失った。その際に二人の女性の幻を見る。それらを女性は聖母マリアなどに関連付けるが、セリグマンは色情狂に違いないと言う。そんな男に、女性は女性体験がない人にはわからないと答える。セリグマンは、自分には男性体験もないと言う。また、壁にかかっていたイコンがきっかけで、東方教会と西方教会の相違が論じられる。西方教会は苦痛を原理としているが、東方協会は愛を原理としている。 そこで第六章は「東方教会と西方教会」というタイトルで展開される。サイレントダックという副題がついて。サイレントダックとは、手の平をアヒルの頭部のように形作ること、それでもって女性のヴァギナをかき回すのである。ともあれ女性は妊娠した体験を語る。自然出産では穴が広がるので、帝王切開を受ける。生まれてきた子どもを女性は愛せない。失った性感帯を回復するため、彼女はある変態男とかかわるようになる。その男はサディストで、女性に鞭を振るっては留飲を下げる。一方女性はマゾヒストで、鞭に快楽を覚える。キリストと同じく40回打たれたいと思う。キリストが打たれたのは38回だとセリグマンは言う。セリグマンは全く性欲がないと言い張る。女性はセリグマンの亀頭をくわえて射精させてやる。女の淫乱ぶりにあきれたパートナーのジェロームは、子どもをつれて出て行ってしまうが、自分で育てることをせず、施設に預ける。その子の養育費を支払いつづけたのは彼女のほうなのだ。 第七章は「鑑」と題する。女は自分が陥っているセックス依存症を治そうとする。施設に入って色々と治療するが、ついにはバカバカしくなってやめてしまう。セックス依存症を女性はいニンフォマニアックと呼ぶのだが、施設の患者たちはセックス・アディクションと呼んでいる。 第八章は「銃」。世の中に自分の居場所がないと感じた女は裏稼業の世界に入る。仕事は借金のとりたてだ。武器としてワルサーPPKを持ち歩く。年老いて先の見えてきた女は、後継者の育成にかかる。施設から15歳の少女を受けだすのだ。その少女に仕事の仕方を教える。少女はまた、レズビアンでもあった。少女とともに取り立てにいったときに、相手がジェロームだとわかる。昔のことがあるので、女は自分では手出しをせず、少女にやらせる。だがジェロームは反撃し、女を襲う。女は抵抗して小便をひっかけるが、勢いがない。かえってジェロームに穴を塞がれ、よがり声をあげるのである。 全編を通じて実に人を食った話が展開する。こういうタイプの女は毒婦というのだろう。日本にも似たようなものは存在するのかもしれないが、ここまで徹底したのはいないのではないか。 そこで第六章は「東方教会と西方教会」というタイトルで展開される。サイレントダックという副題がついて。サイレントダックとは、手の平をアヒルの頭部のように形作ること、それでもって女性のヴァギナをかき回すのである。ともあれ女性は妊娠した体験を語る。自然出産では穴が広がるので、帝王切開を受ける。生まれてきた子どもを女性は愛せない。失った性感帯を回復するため、彼女はある変態男とかかわるようになる。その男はサディストで、女性に鞭を振るっては留飲を下げる。一方女性はマゾヒストで、鞭に快楽を覚える。キリストと同じく40回打たれたいと思う。キリストが打たれたのは38回だとセリグマンは言う。セリグマンは全く性欲がないと言い張る。女性はセリグマンの亀頭をくわえて射精させてやる。女の淫乱ぶりにあきれたパートナーのジェロームは、子どもをつれて出て行ってしまうが、自分で育てることをせず、施設に預ける。その子の養育費を支払いつづけたのは彼女のほうなのだ。 第七章は「鑑」と題する。女は自分が陥っているセックス依存症を治そうとする。施設に入って色々と治療するが、ついにはバカバカしくなってやめてしまう。セックス依存症を女性はいニンフォマニアックと呼ぶのだが、施設の患者たちはセックス・アディクションと呼んでいる。 第八章は「銃」。世の中に自分の居場所がないと感じた女は裏稼業の世界に入る。仕事は借金のとりたてだ。武器としてワルサーPPKを持ち歩く。年老いて先の見えてきた女は、後継者の育成にかかる。施設から15歳の少女を受けだすのだ。その少女に仕事の仕方を教える。少女はまた、レズビアンでもあった。少女とともに取り立てにいったときに、相手がジェロームだとわかる。昔のことがあるので、女は自分では手出しをせず、少女にやらせる。だがジェロームは反撃し、女を襲う。女は抵抗して小便をひっかけるが、勢いがない。かえってジェロームに穴を塞がれ、よがり声をあげるのである。 全編を通じて実に人を食った話が展開する。こういうタイプの女は毒婦というのだろう。日本にも似たようなものは存在するのかもしれないが、ここまで徹底したのはいないのではないか。 |
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