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アンドレイ・タルコフスキー「僕の村は戦場だった」:大祖国戦争を戦う少年



1962年のソ連映画「僕の村は戦場だった(Иваново детство)」は、第二次世界大戦、ロシア語でいう「大祖国戦争(Великая Отечественная война)」の一齣を描いたものだ。この戦争はソ連にとって、対ナチスドイツの戦争だったわけだが、実に2000万人の国民がドイツ軍によって殺された。これがどんなにすさまじい数字であるか。当時のソ連の人口はロシア以外のソ連構成国を合わせても二億に満たなかったと思われるし、ロシア人だけでは一億程度だったろう。そのうちの2000万人が殺されたわけであるから、半端な数字ではない。だからドイツ人に対するロシア人の恨みは深いのであって、その恨みは戦後20年もたっていない1962年の時点では、まったく薄まっていなかったはずだ。この映画はそうしたロシア人側の心情を強く反映したものになっている。この映画の迫力は、ロシア人の怨念に根ざしているといってよい。

映画の原題(イヴァンの幼年時代)にあるように、イヴァンという名の一人の少年をめぐる物語である。ドイツ軍によって両親と妹を殺された少年が、復讐のためにソ連軍に身を投じ、ドイツ軍と戦うことを選択する。そしてみずから偵察行動を志願したあげく英雄的な死をとげるというものだ。少年であるから、大人たちは彼を安全なところに移そうとする。だが少年はかたくなに拒否する。安全なところに移ることは身を休めると同じことだ、戦争中に休んでいるのは役立たずだ、と言って自分も祖国のために戦うことを願うのだ。

なにが少年をここまでかたくなにするのか。それはドイツ人によって家族をことごとく殺されたことへの怒りだ、と映画は言う。たしかに家族を殺された怒りには強いものがあるだろうが、わずか十歳前後の少年をそこまでかたくなにするのは、戦争の忌まわしい作用のせいだろうか、そんな疑問をこの映画は見るものに投げかけているようである。

少年の怒りはドイツ人に向けられるが、その憎しみの対象であるドイツ人は映画の中では出てこない。出てくるのは400年前の画家デューラーの描いた絵である。ドイツ人の残虐性は、さりげなく表現されるだけだ。たとえば、ソ連兵の死体を、ソ連軍の目に付きやすいところにさらすなどである。その遺体は、必死のソ連兵によって回収されることになるだろう。一方少年のほうは、単身ドイツ軍陣地の中に入ったまま、画面から姿を消す。彼が再び画面に現れるのは、ドイツ降伏後の収容所の中の場面においてであり、その場面では、彼はドイツ軍によって死刑に処せられたという情報が伝えられる。彼は最後まで勇敢な人間として、厳粛に死んでいったというメッセージが伝わってくるのだ。

映画の舞台となった戦場は、大きな川に沿って展開しているということになっている。そうすることで、スターリングラードの攻防戦を思い起こさせようというのであろう。この攻防戦でドイツ軍を消耗させたことが、連合軍の勝利の大きな要因となった。だからこの少年も、連合軍の勝利とロシアの解放のための大きな礎となったわけだ。少年にこのような役割を演じさせるところが、ロシア流の愛国心の現われなのかもしれぬ。日本映画でなら特攻兵士が演じるところを、ロシア映画ではパルチザンの少年に演じさせているわけである。

タルコフスキーは映像の美しさで定評があるようだが、この映画でもロシアの自然、たとえば白樺の林だとか、ゆったりとした川の流れだとかに、その美しさがよく現れている。



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