壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真西洋哲学 プロフィール掲示板



新藤兼人「どぶ」:知恵遅れの女の悲しさ



新藤兼人の映画「どぶ」は、イタリアの巨匠フェデリコ・フェリーニの傑作「道」とよく比較される。どちらも知恵おくれの女性の半生を描いている。彼女たちは天使のように心が清らかで、人を疑うことを知らない。そこを男たちに付け入られて食い物にされたあげく、むなしく死んでいく。しかし彼女たちが死ぬと、男たちは彼女たちを失ったことの意味を知って烈しく後悔し、自責の念に打たれて輾転反側する、という筋がよく似ているし、しかも、奇しくも同じ1954年に公開された。

新藤とフェリーニが互いの存在を知っていたはずはないから、なぜ彼らが同じようなテーマを全く同時並行的に追及していたか、不思議に思われないでもないが、フェリーニはさておいて、新藤の場合には、社会派らしい彼の、時代への鋭い視線がこのテーマを取り上げさせたのだと思う。この映画が作られた当時の日本は、まだ戦争の打撃から十分に立ち直っていなかったし、したがってゆとりのない世の中だった。そんな世の中で、寄る辺を失った知恵おくれの人間、しかも女にとっては、生きることがどんなに厳しいことか、それを描きたかったのだと思う。

生きることが厳しいのは、この時代の多くの人間に当てはまったことだった。だから、知恵遅れの女性だけが辛い思いをしたわけではなかったのだが、知恵遅れの人間には、自分の蒙っている辛さを、辛さとして受け止める理性的な働きがない。彼女はただ、世の中に流されるままに、漂うように生きていくほかはないのだ。その漂うような彼女の生き方が、異様な光を放つ。その光は、見る者の眼を強く射て、その人の心の中まで照らす。心の中を照らされた人は、そこに暗黒を見て、ぞっとせざるを得ないのである。

この映画は時代に深くコミットしている。あの時代だからありえたのであって、今日では、とうていありえない。それは、フェリーニの「道」の場合もそうだろう。今日のイタリア社会では、そのような話はありえないことだし、したがって観客の同感を得ることも難しいだろう。

そんなわけでこの映画は、新藤らしく、社会に対する厳しい視線に貫かれている。

舞台は、戦後の混乱からまだ十分に立ち直っていない時代の日本。おそらく川崎あたりだろうと思われるが、工場地帯近くの、どぶと化した沼(カッパ沼という)に沿って広がる湿地帯の貧民窟だ。かつては、空襲で家を焼き出された人々が、バラックを建てて、そこで助け合って生きていた光景が日本中のあちこちで見られた。だから映画の舞台となったこの貧民窟は、当時の日本人にとっては、決して異様な眺めとはいえなかったはずだ。

この貧民窟の一軒のバラックに、二人の若い男が共同生活をしている。そこへ、ふとしたきっかけで、知恵おくれの若い女(乙羽信子)が紛れ込んでくる。この女は、かつては工場で働いていたということになっているが、その工場をクビになって、放浪しているところを、若者の一人(殿山泰司)と出会い、彼の後をついてきたのである。若者たちは、二人で飯を食っているところをこの女に侵入され、びっくりして追っ払おうとするが、彼女が退職金にもらった千円を持っていると知り、その金目当てに飯を食わしてやろうと申し出る。こうして二人の若者(殿山と宇野重吉)と知恵遅れの女とのへんてこな共同生活が始まる。

この貧民窟には、さまざまな人々が住んでいる。落ちぶれた仁侠やくざ、新興宗教に凝り固まった老女、俳優崩れでルンペン暮らしを楽しんでいる男、すけこましのチンピラとかつてのそいつの情婦といった連中が、主人公の三人と絡み合って、様々な人生模様を繰り広げる。その人生模様というのが、この時代の貧しい人々の生活ぶりを如実に反映している。そこが、この映画のもうひとつの見どころにもなっている。

二人の若者は、女から巻き上げた金で、遊んで暮らしているが、金はすぐになくなる。そこで、二人は俳優崩れのルンペンと結託して女を騙し、働かせて金を作らせようとする。働くといっても、知恵遅れの女にできることといえば、パンパンくらいしかない。若者たちは、ああだこうだと、ありもしないことを言い繕って女の同情を引こうとする。人を疑うことを知らない天使のような女は、すっかり若者たちの境遇に同情し、自分が犠牲になって、必要な金を稼いであげようと言い出すのだ。

こうして、女は川崎らしい駅前に立って、駅から吐き出されてくる男をひとりひとり捕まえては、私を買ってくれとねだるのだ。そのシーンが何ともすさまじい。乙羽信子は、ピエロを思わせるようなメークをしているが、これはどういう意味なのか。また、雨の中で彼女を車に乗せて、車内で性交しようとした男(山村聡)が、途中で気を変えて女を車の外に放りだすシーンがあるが、これもよくわからないところがある。

女の商売はなんとかうまくいっているようで、彼女はみるみる金を稼ぐ。すると、二人の若者ばかりか、貧民窟のほかの住民までが、彼女に金を無心するようになる。彼女は天使のように心が優しいから、無心されれば気前よく与える。第一、彼女には金の使い道がわからないのだ。

やがてかなしい結末がやってくる。きっかけは、彼女にセックスを迫ってきた宇野重吉を彼女が拒絶したことだった。拒絶された宇野重吉は、逆上して彼女を追い出してしまう。追い出された彼女は、行き場を失って駅前のあたりを放浪しているところを、パンパンの集団に因縁をつけられ、廃屋に引きずり込まれて凄惨なリンチを受ける。このリンチシーンがまた、迫力満点だ。パンパンのリンチシーンとしては、溝口健二の「夜の女たち」が思い出されるが、この映画のリンチシーンはそれよりもっと凄惨だ。

リンチされて追いつめられた彼女は、交番に助けを求めるが、警察官がいない。そこで、壁に架っていた拳銃を抜き取って、パンパンどもを威嚇する。こうして駅前は大騒ぎになるのだが、そのうちに、騒ぎに気付いた警察官が、別の拳銃で彼女を射殺するのである。

遺体となった彼女が、若者たちのバラックに戻ってくる。そこで意外なことが次々と明らかになる。彼女が書いた「小説」と言うのを、貧民窟の少女が預かっていて、それを読み上げると、たどたどしい文章から、貧民窟の住人達への彼女の優しい気持が伝わってくるのだ。また、その通夜の席上に、彼女が差出人になった荷物が届けられるが、それは一着の学生服と一足の革靴なのであった。彼女は、若者たちの言葉を信じて、自分がパンパンをしていたのは、宇野重吉の学費を出してやるためだと思い込んでいたのだ。さらに、彼女が宇野重吉を拒絶したのは、彼が嫌いだったからではなく、逆に好きだったからだということもわかった。彼女は、自分がかかっている性病を、愛する男に移したくなかったのだ。

彼女の気持を知った男たちは、自分の行為を恥じて、烈しい自責の念に囚われる。そこは、「道」の中のザンパーノと同じだ。これがあるから、この映画は、映画として救われているといえる。それがなかったならば、彼女が生きた人生の意味はなんだったのか、というより、人が生きるとはどういう意味なのか、誰にもわからなくなろうというものだ。



HOME新藤兼人次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2014
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである