壺齋散人の 映画探検
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鬼婆:新藤兼人の世界



新藤兼人は、或るインタビューの中で、自分なりに最高傑作と思うのは「鬼婆」だといっている(「新藤兼人 私の十本」)。この作品は、ホラー映画だという評判もあるが、新藤自身はそうは思っていなかっただろう。彼はホラー映画を作ることなどに意義を感じていなかったからだ。彼が映画作りでこだわり続けたのは、世の中の理不尽さに対する怒りと、人間の根源的な欲望であるセックスだ。この映画には、見ようによっては、このふたつの要素が実に密接に絡み合って出ている。そういう意味で、新藤はこの映画を、自分のこだわりを最も忠実に表現した作品だと感じて、これを自分にとって最高の出来栄えだと認めたのではないか。どうもそんなふうに思える。

まず、世の中の理不尽さに対する怒りということについて。これは新藤が、「原爆の子」以来一貫して追求してきたテーマだ。この映画の中では、戦乱によって生活を破壊された庶民の怒りが取り上げられている。新藤にしてはめずらしく時代劇であるこの作品は、後醍醐天皇の時代の、戦乱にあけくれる日々を生きる庶民の生き様を描いているのだが、中年女(乙羽信子)とその息子の嫁(吉村実子)が、働き手を奪われて自分たちだけで生きていくために、落武者を殺してその衣装やら武器を奪い、それをブローカーに売り払って生活の糧を稼いでいるということになっている。落武者たちはこの女たちにとっては、戦乱をもたらした張本人の端くれなのであり、彼らを襲って殺すことは、戦乱にあけくれる世の中の理不尽さに対する彼女らなりの復讐なのだ。

つまり彼女らのやっていることは、単に生活の必要に駆られた結果のやむにやまれぬ行為というに止まらず、息子であり夫である男を取られたことへの、彼女らなりの怒りの表現なのである。この怒りは、中年女の前に現れた落武者に対して、この女が激しい怒りをぶつけるところによく現れている。この落武者は、この女を虫けらのように扱うのであるが、それは、この男が自分自身を貴い身分の人間だと思っているからである。ところが中年女にとっては、そういう「貴い身分」の連中が互いに戦をしかけあって、自分ら罪もない庶民を巻き添えにしている。だから許せないとこの中年女は怒りを覚え、この落武者を殺してしまうのである。

この映画の後半は、二人の女とその前に現れた一人の男の間にくり広げられるすさまじい性欲のぶつけあいを描いている。八というこの男(佐藤慶)は、彼女らの息子であり夫である男とともに、領主によって徴兵され戦に駆り出されたのであるが、息子の方は運悪く殺されて、この男だけが戻ってきたのだった。

男は若い女の方に性的興味を覚え、彼女を誘惑する。彼女のほうもそのうち男の求愛に応えて男のもとへ通うようになる。中年女のほうは、嫁に去られては自分だけで暮らしていけないと感じ、二人の仲を何とか引き離そうとする。そうこうするうち、自分も性欲のとりことなって、男を誘惑するようなこともする。しかし、男は婆には用はないといって相手にしてくれないのだ。

そこで中年女は、さまざまな策を弄して、若い男女の逢引を邪魔しにかかる。そんな邪魔を乗り越えて二人ははげしく愛し合う。その愛し方は、肉体の全たき融合という意味での愛し方だ。一糸纏わずまっぱたかになった二人が狂ったようにススキが原の中を駆け巡る。二人の顔には歓喜の表情が浮かんでいる。彼らにとっては、生きることとはセックスすることに他ならない。セックスこそがこの世に生きていることの最大の証なのだ。

中年女の策略のなかで最も効果的だったのは、鬼の面をかぶって嫁を脅かすことだった。ちょっと知恵が足りないように見えるこの若い女は、中年女からさまざまな迷信を聞かされて気が乱れかけているところを、いきなり鬼に襲われたと思いびっくり仰天してしまうのである。しかし、こうして鬼の面をつけて嫁を脅し続けているうちに、その鬼の面が中年女の顔からはがれなくなってしまうのだ。剥がれなくなった鬼の面は、もはや面ではなくこの女の顔そのものとなった。女はいまや、鬼婆に変身したのである。この映画が、鬼婆と題されている所以である。

実は、もともとこの鬼の面をかぶっていた落武者も、死んだ後までこの面が剥がれなかったのだった。中年女はその落武者の顔そのものを剥がすようにしてこの面を剥がしたのである。落武者の顔に面がこびりついてしまったのは、落武者が人間らしい感情を失ったことの結果だった。それと同じようにこの女も、人間らしい感情を失ったときに、この面に取り付かれてしまったのである。

鬼婆は嫁に向かって、鬼の面を取ってくれと懇願する。嫁のほうは、自分の言うことを何でも聞き入れるなら取ってやろうという。鬼婆は、なんでもいうことを聞くから取ってくれろと哀願する。そこで嫁がその面を剥がそうとするが、まったく剥がれる様子がない。渾身の力を振り絞ってやっと面を剥がしたかと思うや、面の下には顔がない、つまり面をとられた鬼婆は、のっぺらぼうになってしまうわけなのである。この辺が、この映画がホラー映画と評される所以である。

びっくり仰天した嫁が男のところへ逃げていく。その後を鬼婆が追いかけていく。そうこうしているうち、鬼婆は自分で掘った深い穴に落ちてしまうのだ。嫁のほうも、求めつつあるいとしい男は、雑兵の落武者によって殺されてしまっている。

この映画の舞台は、都の真南の方角にあるススキが原という設定になっているが、実際に舞台となったのは千葉県の印旛沼だということだ。成田線の安食駅から数キロのところというから、印旛沼のもっとも北側の部分だろう。映像のなかではススキがびょうびょうと広がっているのが見え、印旛沼と思われる水溜りも映っている。千葉県内にもこんな自然の風景が、この映画が作られた時代にはまだ残っていたかと、千葉県人である筆者などは感心してしまった。





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