壺齋散人の 映画探検
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ある映画監督の生涯:新藤兼人の溝口健二へのオマージュ



新藤兼人が1975年に制作した「ある映画監督の生涯」は、あくまでもドキュメンタリー映画として作られたもので、商業的な成功はあまり考えていなかったようだ。タイトルにわざわざ「私家版」という文字を加えてあることからも、そうした意図が伝わってくる。しかしこの作品は、興行的にも成功したし、その年のキネマ旬報のベストワンになるなど、評価も高かった。単にドキュメンタリー映画としてだけでなく、一個の芸術作品としても優れているからだろう。それを可能にさせた背景には、溝口健二という人間に対する新藤兼人の、人間としてのこだわりがあったのだと思う。

新藤兼人は、溝口健二と一緒に仕事をして、映画作りを学んだといっているが、それ以前に、シナリオ作家として独り立ちするうえで、溝口から勇気づけられたといっている。溝口の勇気づけがあったからこそ、今の自分がある。だから溝口は自分にとっては恩人である。その恩人の生きざまについて、まだ溝口を知る者が生きている間に語ってもらうことで、溝口健二という一人の人間がかつて存在したのだということを、後世の日本人に伝えたい。そんな気持ちから、この作品を作り始めたのだと新藤はいっている。だからこの作品は、溝口に対する新藤のオマージュのようなものだといえる。

作品は、生前溝口健二とかかわった大勢の人々に対するインタビューという形をとっている。ドキュメンタリー映画には色々な作り方があるが、この映画はインタビュー集という形を取っているわけである。インタビューの傍ら、話に関連した場所や出来事を示唆する映像や、溝口映画の一部が参考として表示される。それらを見ながらインタビュイーの話を聞くことで、自づから溝口健二という人間の全体像が、次第に浮かび上がってくるというようになっている。

溝口健二という人間は、映画監督としても破格だったが、生活者としても破格だった。映画監督としては、日本人の伝統的な生き方にこだわった、日本人でなければ絶対に作れないような映画を作った。今日溝口の国際的な評価が高いのも、彼が徹底的に日本にこだわったその姿勢が、かえって国際的に評価されたからだ。また、生活者としての溝口健二は、いわゆる妥協のない人間で、少年のように一途なところがある一方、明確な政治的意見を持つでもなし、むしろ権威に弱いところがあった。にもかかわらず、溝口の作品に反権威的なところがあるのは、彼が基本的には、弱い者の立場に立っていたからだ。そんな溝口の様々な側面が、それぞれのインタビューを通じて、すこしずつあぶりだされてくる。

インタビュイーの殆どは、溝口に対して好意的だし、また新藤自身も溝口に惚れ込んでいるので、だいたいは溝口にとって都合のいい話が展開する。それでも嫌味に陥らないのは、溝口の生き方に嫌味がなかったからだろう。

そんな中で、溝口に批判的な意見を言っていた人が二人いた。一人は溝口の助監督を一時勤め、後に溝口を厳しく批判した映画監督増村保蔵であり、もうひとりは(意外なことに)女優の田中絹代である。

増村は、溝口の無教養さが気に食わなかったらしい。無教養な視点で、日本人の生き方を一面的に描いた。そのくせ本人は、自分の無教養さに無自覚で、自分は偉大な映画作家だと思い込んでいた。そこのところが鼻持ちならなかったが、しかし憎めないところもあった。それは溝口の少年のような純真さで、これがあったからこそ溝口は、多くの人から愛されたのだろう、と増村は言う。そんな増村の言い分には、エリート意識が垣間見られるところもあって(増村は、東大で三島由紀夫の同級生だった)、眉に唾して聞いた方がよいが。

田中絹代に関しては、彼女は新藤がこの作品のなかでもっともこだわったインタビュイーだったといえる。真っ先にインタビューしたのが彼女で、たった一回のインタビューだったにかかわらず、その時に採取した映像を編集して、何回も登場させている。前半は、映画作家としての溝口を語る田中、そして最終に近いところでは、人間としての溝口健二を語る田中だ。実は溝口は田中絹代に惚れていて、そのことを新藤に直接告白したこともあったそうで、新藤はそれを踏まえて、田中に溝口の愛を受け入れる余地はあったかと尋ねたのである。これにたいして田中は、それはありえなかったと、あっさり答えている。その理由が面白い。溝口は映画作家としては偉大だったかもしれないが、一人の人間としては、退屈でとても一緒にいたいと思えるような人ではなかった。仮に私が溝口と結婚しても、決して幸福にはなれなかったでしょう、というのである。惚れた女にこうまでいわれては、溝口も浮かぶ瀬がなかろう。

溝口の作品には、世界的に誇れる傑作があるかわりに、駄作も多い、というのが定評になっているが、この作品のなかでもそのことについて触れられている。この映画の中で、傑作として紹介されているのは、戦前の三部作と言われる「浪花悲歌」、「祇園の姉妹」、「残菊物語」と戦後の時代物四部作といわれる「西鶴一代女」、「雨月物語」、「山椒大夫」、「近松物語」である。一方駄作の代表は「元禄忠臣蔵」や「楊貴妃」のほか、戦時中に作られた作品群だ。それらが駄作となった理由は、溝口がテーマをどう扱ってよいかわからなかったり、軍部など外部からの圧力を感じて制作に打ち込めなかったりしたことだ、といっている。そんなところにも、妥協を知らない溝口の一途な性格が表れているというのである。

インタビュイーには、田中絹代を始め溝口作品に登場した俳優たちの外に、いわゆる溝口組と呼ばれて、溝口と一緒に映画作りをおこなった大勢の人々が登場する。そうした人々の話を聞いていると、溝口一人の生き方に加えて、日本映画の歴史の一端が垣間見られるところもある。

なお、二時間半に及ぶ映画を進行させているのはインタビュアーの新藤兼人自身である。溝口にかかわりの深い人々を一人ひとり訪ね歩き、色々な場所でその人たちに溝口の思い出を語らせる。そのやりとりを見ていると、新藤がすぐれたインタビュアーだということがわかる。巧みに話を誘導しながら、しかものびのびと話をさせ、肝心な時には聞き役にまわるといった具合に、すぐれたインタビューの見本を見るようである。



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