壺齋散人の 映画探検
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モダン・タイムズ(Modern Times):チャーリー・チャップリン



チャップリンの映画「モダン・タイムズ(Modern Times)」は、20世紀の機械文明を批判した作品として映画史上屈指の名作に数えられる。人間の文明とは人間の生活を豊かにするはずのものなのに、20世紀の機械文明は、人間が機械を使うのではなく、人間が機械に使われると言う皮肉な現象を生むことによって、かえって人間の生活を惨めなものにしつつある。そんなメッセージがこの映画には含まれている。

チャップリンにはもともと社会批判の視点があったが、この映画にはそれが特に強く出ている。しかしチャップリンのすごいところは、その視点を笑いで包むことで、露出させていないことだ。機械文明の非人間的な性格を、笑いに包みながらそれとなく表現する、そうした控えめな演出が、この映画を単なる文明批判のプロパガンダ映画にとどまらせず、喜劇として、あるいは映画芸術として、完成度の高い作品たらしめている。

映画の中で、人間と機械との関係が描かれている部分は二つある。一つは冒頭部分で、労働者たちがベルト・コンベヤーに振り回されたり、チャップリンが機械の歯車に飲み込まれたりといった場面が出てくる。そのついでに、チャップリンが自動給食機械の実験台にされ、機械から散々からかわれるおまけの部分もついている。

労働者がベルト・コンベヤーに振り回されるというイメージは、当時流行となったフォード・システムとかテーラー・システムと言った"近代的"労働者管理システムをイメージしたものだ。これは労働者を生身の人間としてではなく、労働力の担い手として抽象化するもので、いかにして労働者を効率的に働かせるかを課題としたものだった。ベルト・コンベヤーシステムは、その課題に最もよく答えたシステムだったわけである。

そのシステムに潜む非人間性をいち早く取り上げ映画の中で表現したのは、ルネ・クレールである。クレールは「自由を我らに」の中で、ベルト・コンベヤーに振り回される労働者たちの惨めな姿をコミカルなタッチで描いた。チャップリンが「モダン・タイムズ」の冒頭で描いたベルト・コンベヤーの場面は、クレールの「自由を我らに」と非常によく似ている。というかほとんど同じイメージと言ってよい。そんなことから、チャップリンによるパクリ疑惑が問題となったりしたが、クレール自身はそんなことにこだわらなかったし、また、チャップリンのこの映画の魅力が、そのことで損なわれることもなかった。チャップリンの見事な演技が、独自の魅力を付加しているからだろう。

人間と機械の関係を描いたもう一つの場面は、映画のほぼ半ばで、チャップリンが親方と一緒に機械を点検する場面である。この場面で親方が機械の中に飲み込まれてしまうのだが、それがどうも、人間が機械の部品の一つになったような印象をもたらす。これは冒頭部分でチャップリン自身が機械に飲み込まれるところも同じで、チャップリンはこうした場面を通して、機械による人間支配の不気味なイメージを表現したのだと考えられる。

以上の場面を除けば、機械文明を批判した場面は出てこない。むしろ機械文明を描いた場面は付属的な要素に過ぎないといってよいのであって、映画の本体は、チャップリンの映画の常道に従って、宿無しの浮浪者が不運な娘に恋心を抱くという話なのである。

宿無しの浮浪者と不運な娘という組み合わせの中にも、社会批判の視点は潜んでいる。娘は家が貧しい為に盗みをしなければ生きていけない境遇にあるし、その境遇を乗り越えてなんとか這い上がろうとすれば、社会によってその努力に水をさされる。そうした抑圧的な社会のあり方は警察官の姿に象徴されていて、この映画の中では、チャップリンも彼が愛する娘も、つねに警察に追われているか、あるいは警察の影におびえているのである。

浮浪者のチャップリンにとっては、監獄に入れられることは、悪いことばかりではない。少なくとも飢えずにいられる。したがって彼は、飢えに迫られると自分から監獄に入ろうとまでするのだ。一方、娘のほうは生まれながらの自由人らしく、監獄などまっぴらだ。だから警察につかまりそうになると、そのつど精一杯努力して逃れようとする。そんな娘を見ていると、チャップリンも自由のありがたさを感じるようになる。自由でなければ愛を貫くことが出来ないからだ。人間には飢えをしのぐことよりも大事なことがある。それは愛する人との絆だ、というわけである。

この映画の中の最もすばらしい場面は、人間と機械のかかわりを描いた場面だが、そのほかにも見所は多い。チャップリンと娘が廃屋のあばら家の中で一緒に食事をするところ、閉店後のデパートの中で二人でローラー・スケートをするところ、娘の働いているキャバレーでチャップリンがエンタテイメントを披露するところなどだ。とりわけエンタテイメントの場面は、ボードビリアンとしてのチャップリンの面目躍如といったシーンだ。

ラスト・シーンもすばらしい。いくら打ちのめされても未来への希望を捨てない二人が、手に手をとって道を歩いてゆく。その二人の後姿が、これはチャップリンのお家芸ということもあって、なんとも豊かな余韻を残してくれる。なお、二人が手を取り合って新しい門出を旅立ってゆく後姿は、クレールの「自由を我ら」でも見られたが、こちらのほうは、クレールがチャップリンのアイデアを拝借したということのようだ。





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