壺齋散人の 映画探検
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ランボー(First Blood):テッド・コッチェフ



1982年のアメリカ映画「ランボー(First Blood)」は、ベトナム帰還兵の不幸を通じてベトナム戦争で蒙ったアメリカの傷を描いたなどと評されているが、筆者などにはそれ以上に、アメリカ警察の暴力的体質を描いたものだという印象が強い。この映画は、警察官がベトナム帰還兵である主人公を、流れ者だと言う理由で排除しようとしたあげく、手ごわい抵抗にあうと見るや、警察の総力を挙げて相手を抹殺しようとするところを描いている。その過程で見せる彼等のやり方は、暴力団と全く変わらない。変わっているのは彼等が権力を持っているということだけだ。こういう映画を見せられると、アメリカの警察と言うのは、基本的には、権力を持った暴力団に他ならないという印象を強く持たされる。

特にここ二・三年の間に、アメリカでは警察による暴力沙汰が全国規模で起きて、警察に対する市民の批判が高まったのは周知のことだが、警察には真剣に反省している様子が見られない。ニュー・ヨーク市警などは、警察の体質を批判した市長に、職務サボタージュで対抗したほどだ。こういう風景を見ると、アメリカの警察というのは、市民の安全を守ることより、自分たちの職業的利益を守ることに夢中になっていると思わされるのだが、そうした彼等の職業意識の背景が、この「ランボー」という映画を見ることで、ある程度納得されるというわけである。

こんなわけでこの映画は、警察の暴力に対して一人で立ち向かうベトナム帰還兵の孤独な戦いを描いている。ジョン・スタローン演じるランボーというベトナム帰還兵は、かつてグリーンベレーに属していた叩き上げの軍人だったということになっており、超人的な身体能力と並外れた思考能力の持ち主とされている。その男がたまたまある町を通りがかった際、その街の保安官によって理不尽な扱いをされる。一方的に拘束された上で、暴力をふるわれるのだ。その暴力に反発したランボーを、保安官は警察の総力を上げて懲らしめようとする。山の中に逃げ込んだランボーを、警察犬に追跡させたり、ヘリコプターまで動員して、空中から射殺しようともする。この余りの理不尽ぶりに流石のランボーも驚くほどだ。

そのうち、警察の追跡劇はエスカレートして、州兵まで動員される始末だ。それに対してランボーのほうはたった一人で迎え撃つ。その戦いぶりがすさまじい。いまや何百人規模に膨れ上がった追っ手を前にして、それこそ超人的な能力を発揮しながら、敵を打ちのめしてゆく。しかし、映画の中では、ランボーは相手を殺すようなことまではしない。彼の行動はあくまでも自衛の為の最小限の措置なのだ。たまたま死ぬものもいるが、それは自業自得というべき死に方であって、ランボーが直接手を下したわけではない。

そのうち、ベトナムでランボーの上官だったという男が現れる。彼は国防総省から来たということになっている。その男がランボーの感情に訴えて、何とか投降させようとする。これに対してランボーは、半ばは懐かしさ、半ばは警戒心が働いて複雑な気持ちになるのであるが、映画の進行にしたがって、ついには上官の情動的な働きかけに反応する。最後近くの場面で、宿敵の保安官を攻撃し、とどめをさしてやろうとする段になって、上官の呼びかけに応じて、投降を決意するというわけなのである。その際にランボーが泣きながら叫ぶ言葉が、ベトナム帰還兵の苦悩をよくあらわしている。俺たちはアメリカのために命をかけて戦ってきたのに、国に戻ってくれば厄介者扱いされるというのである。

このランボーの言葉の中に、当時のアメリカにおけるベトナム戦争への屈曲した反応振りが凝縮された形で現れているというので、この映画はある種の戦争批判映画にもなっているわけなのだが、戦争批判はそうあからさまにされているわけではない。あくまでもアクション中心の娯楽性の高い映画として作られている。

実際、この映画は殆どの部分が、ランボーと警察との戦いを中心としたアクション場面からなる。観客をうならせるようなすさまじい場面が連続し、息を継ぐ間もないほどだ。アクション映画としては一流だといえる。この映画はシリーズものとして全部で五作作られたが、二作目以降では、政治的なメッセージは一切省いて、純粋なアクション映画に徹した。





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