壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画ブレイク詩集西洋哲学 プロフィール掲示板



ジョナサン・デミ「羊たちの沈黙」:シリアル・キラーの不気味な動機



ジョナサン・デミの1991年の映画「羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)」は、シリアル・キラー(連続殺人犯)をテーマにした作品である。こういう映画は事柄上サイケデリックになりやすい傾向がある。このジャンルの映画の代表作と言われるヒッチコックの「サイコ」は、連続殺人よりも犯人の異常な人間性のほうに焦点が当てられていたし、今村昌平の「復讐するは我にあり」も、殺人の動機がはっきりしていないと言う点で、非常な不気味さを感じさせる。動機と言えば、人を殺すことそのものが快感だからというほかはない、というのはかなりエクセントリックなことだ。

しかし、「サイコ」や「復讐するは我にあり」の場合には、雰囲気はエクセントリックなりに筋書きはわかりやすい。一言でいえば、異常な人間が、その異常さに見合った異常な行動をするというに尽きる。ところが「羊たちの沈黙」にあっては、雰囲気がエクセントリックなだけではなく、筋書きもかなり異常でわかりづらい。というのも、この映画では、主人公はシリアル・キラーそのものではなく、別の人物だからである。その人物も、異常な人物には違いないが、映画のテーマである連続殺人とは直接のつながりはない。彼は精神病院に隔離されていて、外界で進行している犯罪行為とはかかわりを持たないのだ。それなのに、そのかかわりを持たない第三の男が、シリアル殺人事件の鍵を握っていると言うことになっている。そんなわけで見ているほうは、たびたび頭が混乱してしまうほどである。

この映画は、その年のアカデミー賞の主要部分を総なめにしたほどに世評は高かった。アカデミー賞というのは、アメリカ映画の真髄とも言うべき作品が受賞することになっている。それ故、アカデミー賞を総なめしたこの作品はアメリカ映画の真髄と言えるかどうか、というと、それはかなり怪しい。むしろ、それ以前のアメリカ映画の常識を覆したといってもいいようなところがある。それでいて、作品の映画史における影響度はあまり高くはない。この作品に影響されて、同じようなテーマの作品が続々作られたという事態は生まれなかったからだ。

連続して人を殺すような人間は、異常な人間のはずだから、その殺し方も異常だというのが、この手の映画の常道である。この映画でも、連続殺人犯は、人を殺した後で、その皮を剥いで喜んでいる。その異常な殺し方にふさわしく、犯人像はグロテスクそのものだ。この犯人像には、アメリカ人の「異常性」についてのステロタイプが反映されていると考えられる。この犯人は性的倒錯者であり、性転換者であり、男女両性具有者であり、人の皮を剥ぐと言う点ではカンニバリスト(人肉食主義者)なのだ。

この異常な犯人の異常な犯罪にFBIの女性捜査官が立ち向かうというのがこの映画の骨格である。犯人が異常で非人間的なのに対して、この女性は非常に人間味あふれたものとして造形されている。彼女にはある種のトラウマがあるが、それは少女時代に、羊たちが屠殺される現場を見てしまったからだということになっている。映画では前景化していないが、連続殺人犯人による被害者の扱い方が、彼女のトラウマである羊の屠殺と結びついているわけであろう。

その彼女が、犯人の手がかりを求めて、不思議な人物に接近する。その人物も、カンニバリズムの嗜好をもっているということになっている。それがどういうわけか、監禁されているにかかわらず、外界で起こっている連続殺人事件について、非常によく知っているのである。女性捜査官は、この不思議な男とのやり取りを通じて、なんとか犯人の手がかりをつかみ、そのことで六人目の被害者を救出することができた。その前に、この不思議な男は、超人的な能力を発揮して、見張りの警察官を殺したうえで、海外へ脱出してしまうのだ。

女性捜査官を演じたのはジョディ・フォスター、小柄な体と四角張った顔がなんともユニークだ。美人ではないが、独特の魅力を感じさせる。不思議な人物ハンニバル・レクターを演じたのはアンソニー・ホプキンス。カンニバリストの何ともいえない不気味さを、まるで自分自身の素顔であるかのように自然に演じていた。

この映画の最大の見所は、ホプキンス演じる不気味な男レクターが、留置施設の中で警察官二人を殺した後、そのうちの一人の顔の皮を剥がして、それを自分の顔に重ね、警察官になりすまして逃走する場面だ。その場面を見ると、この映画には正義の感覚が欠けていると思いたくなる。ましてや、この男がやすやすと国外に逃亡し、そこで余生を楽しんでいるところを見せられると、何ともいえず馬鹿にされた気分になるではないか。

一方連続殺人犯のほうは、あまりインパクトのない扱われ方だ。この男が裸になって踊る場面が出てくるが、その際に、躯体は男であるにかかわらず、外性器は女性の様を呈している映像が写される。トリック撮影だと思うが、見ていて気持ちの良いものではない。



HOMEアメリカ映画アメリカ映画補遺









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである