壺齋散人の 映画探検
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ファミリー・ツリー(Descendants):寝取られ亭主とダディズ・ガール



アメリカ映画「ファミリー・ツリー(Descendants)」を見た。ファミリー・ツリーといっても、先祖探しの話ではない。寝取られ亭主の話だ。最愛だと思っていた妻がボート事故で重体に陥り、二人の娘を残して死にゆく事態に直面した亭主が、妻が実は他の男と浮気をしていたということを、ほかならぬ自分の娘から聞かされる。そこでショックに見舞われた亭主が、娘たちと一緒に妻を寝取った男の行く方を追っているうちに、次第に父娘の連帯感を醸成していくという、なんだか訳のわからない筋書きの映画なのだ。しかし、訳が分からないなりに、面白く作られている。

寝取られ亭主の話といえば、欧米の精神的伝統文化においては、喜劇の典型ということになっている。ラブレーの世界を駆け回っていた男たちも、シェイクスピア劇に出てくる道化たちも、女房を寝取られることにまして、大きな不体裁はないと考えていた。パンタグリュエルの友人パニュルジュは、なかなか結婚に踏み切れないでいるが、それはとりもなおさず寝取られ亭主の汚名を被ることを恐れているからだ。生涯女房を持つことがなければ、少なくとも寝取られ亭主にならずにすむという理屈からだ。

だから、この映画も喜劇と受け止めてよいはずなのだが、どうもそうとばかりも言えないところがある。たしかにコメディの要素はソコイラじゅうにあるのだが、悲劇的な部分もないわけではない。そんな風に感じさせるのは、主演の父親を演じたジョージ・クルーニーが二枚目過ぎるからだろうか。クルーニーの顔はどう見ても、コメディアンの顔ではない。

それじゃ、何がこの映画の見せどころなのか。それは、父親と娘との関係を、正面切って描いたところが、アメリカの映画ファンには受けたのだ、というような見方もある。アメリカの映画ファンとだけいって、そこに日本人を含めないのは、日本人にはそもそも、父親と娘がよき友人関係を結ぶという文化が薄弱なことを含意している。

アメリカには、そもそもダディズ・ガールというものがあって、娘が父親と精神的に一体化し、父親を生きる模範として受け入れるのが不自然に感じられない文化がある、ということを指摘したのは冷泉彰彦氏だ。(アメリカにはどうして「ダディズ・ガール」が多いのか?)

氏は Newsweek 日本語ウェブ版へ寄稿した小文の中で、こうしたダディズ・ガールを紹介している。氏によれば、アメリカのソフトボールや少女サッカーには、父親たちが深くかかわり、それこそ娘以上に入れあげている例が多いのだそうだが、少女たちもそんな父親を自然と受け入れ、ともに人生の良きパートナーになりえているのだという。そんな娘は、家族への信頼感も強く持っている。だから気に入ったボーイフレンドができると、さっさと結婚して、子どもを産む。

こうした父娘関係のあり方は、父親と娘の両方に遠慮がある日本の文化とは、大きな相違がある、というわけだ。

この映画の父親は、普段は仕事が忙しいことにかこつけて、娘たちとのコミュニケーションが成立しておらず、したがって、娘たちとともに取り残された当初は、どう振る舞っていいかわからぬほど混乱していたが、妻=母親を寝取った男を、一緒に探す旅に出ることで、次第に心が通い合うようになり、最後に父娘一体の密接な関係を形成することに成功したということになっている。だからこの映画は、ダディズ・ガールはいかに作られたか、をテーマにした父娘関係の物語だということもできるのだ。

そういうテーマは、アメリカ人にとっては身近なのかもしれない。しかし、普段から娘とのコミュニケーションが得意でない日本の父親にとっては、あるいはまぶしく見えるかもしれない。まして、娘を持たない筆者などは、ダディズ・ガールなるものがどういうものか、見当もつなかいといった具合だ。

しかしまあ、煩いことを抜きにして、虚心坦懐な気持ちで見ても、この映画にはユーモアと、ほろ苦さと、ちょっぴりしたスピリットがある。圧巻だったのは、亭主が間男に向かって、俺のベッドで何回妻とセックスしたのかと問い詰めたとき、間男が2回やったと答えたときの、亭主の無念そうな表情だった。畜生、ふざけやがって、というわけだ。とにかく、見て損はしない映画だと思うよ。

ああ、それと、年上の17歳の娘を演じたシャイリーン・ウッドリー(上の写真中央)が、なかなか良かった。





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