壺齋散人の 映画探検
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D・W・グリフィス「イントレランス」:不寛容を肯定する



1916年のアメリカ映画「イントレランス(Intolerance)」は、「国民の創生」と並ぶグリフィスの代表作で、映画技術の発展の上で大きな意義を持つとされる作品だ。そうした意義を別にすれば、この映画はつかみどころのない作品である。題名にあるとおり「不寛容」をテーマにしたものだが、何故グリフィスが「不寛容」をテーマにした映画を1916年に作ったか。その意図がいまひとつ明らかでない。1916年といえば第一次世界大戦の最中で、人類の歴史の上でももっとも激しい不寛容が支配した時代だった。ところがこの映画は、そうした同時代への視線が全く感じられない。この映画は、不寛容を人間の悪徳の一つとして、それを百科事典的な関心から説明しているようなところがある。

というのもこの映画は、不寛容の見本として、現代の産業社会、15世紀のフランスにおける宗教対立、ガリラヤを舞台としたキリストの迫害、紀元前のバビロンをとりあげ、それらのおのおので展開された不寛容の実態を、脈絡もなく描いているのである。この四つの不寛容の見本は、相互に何らの関係もないのだが、映画の中では、同時並行的に展開される。四つの見本をそれぞれ独立させて、順次展開するのならわかりやすいのだが、この映画はそれぞれ関係のない場面を同時並行的に展開していくので、それだけでも見せられている観客はわかりづらい気持を抱かせられるのだが、それがグリフィスの狙いなのだろう。人の意表をつくというのは、エンタテイメントの欠かせない要素だからだ。

現代のアメリカ産業社会における不寛容は、金儲けに余念のない実業家が労働者を相手に見せる不寛容だ。それがもっとも露骨な形をとるのは、ストライキの場合だ。実業家は州の政治家を動かして州兵を動員し、ピケをはる労働者たちに襲い掛かる。いきなり銃で撃ち殺すところなどは、いかにもアメリカ流だ。アメリカの州兵というのは、そもそも労働争議から実業家の利益を守るために創設されたといわれるが、この映画を見ると、州兵のそうした性格がよく現れている。しかもこの映画には、実業化が武力で自分の利益を守ろうとすることに、あまり批判的な視線は見せていない。不寛容とはいっても、それは非難されるべきものではないようである。

現代アメリカ社会と並んでこの映画が多くの時間を割り当てているのがバビロンだ。バビロンの興隆と没落を描いているのだが、あまり不寛容とは関係のなさそうなエピソードが続く。バビロンの王がキュロスによって亡ぼされる場面はあるが、それは戦いであって不寛容の行為とは別だろうと思う。しかしこの部分が映画の中の柱の役割を果たしている。バビロンにまつわるエピソードの合間に、他の時代のエピソードがはさまるといった具合なのだ。バビロンの都市国家は大規模なセットで表されているが、これは当時としてはかなり金をかけたのだと思われる。だからその金を回収する意味でも、このセットを延々と映し出す意味があったのだろう。とにかくうるさいくらいに、これがよく出てくるのだ。

不寛容が露骨に表れているのは15世紀フランスの宗教対立だ。カトリックとプロテスタントの間で繰り広げられた宗教対立は、有名なバルテルミーの虐殺に発展するが、これこそ人類史上もっともひどい不寛容の爆発だったといってよい。グリフィスはプロテスタントの立場に立って、カトリックの不寛容を糾弾しているつもりらしい。プロテスタントの信者がカトリックの武力装置によって次々と殺される場面を、扇情的に描いている。

キリストの迫害については、カトリックもプロテスタントもないわけで、これを通じてグリフィスはアメリカ人の反ユダヤ主義に一定の理解を示したつもりなのだろう。キリストを殺したパリサイ人(ユダヤ人)は、キリスト教徒共通の敵だというわけである。

こんな具合にこの映画にも、「国民の創生」同様、グリフィスの人種的偏見が込められているといってよい。

しかしそうした偏見を別にすれば、この映画にはいろいろと面白い工夫が見られる。自動車で列車を追いかけるシーンなどは、スリル満点で、以後無数の模倣を生み出したところだ。



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