壺齋散人の 映画探検
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アーサー・ペン「俺たちに明日はない」:アメリカン・ニューシネマの魁



1967年の映画「俺たちに明日はない(Bonnie and Clyde)」は、アメリカン・ニューシネマの魁となった作品である。アメリカン・ニューシネマとは、1960年代の末近くから70年代半ば頃にかけて盛んに作られた一連の傾向的な作品群をいい、アメリカ社会への懐疑とか政治体制への反抗といったものを主なテーマにしている。その背後にはベトナム戦争があったわけで、この戦争に不正を感じた人々が、アメリカへの意義申し立ての表現として作ったという側面がある。したがって、ベトナム戦争が終わり、アメリカ社会に一定の落ち着きが戻ってくると、アメリカン・ニューシネマは下火になっていた。

この映画は、本格的な反体制映画とは違って、個人と国家権力との対立を大袈裟に描いているわけではない。描かれているのは犯罪者の生き方だ。この映画に出てくる犯罪者たちには現実のモデルがいて、当時この映画を見たアメリカの観客は、その現実のモデルを参照軸にしながらこれを見たに違いない。そのモデルとは、大不況時代に悪名を馳せたギャングの一味なのだが、その連中というのが、西部劇時代のアンチ・ヒーローたちの生き残りのような連中だった。だから観客は、彼らの姿の中に西部劇のアンチ・ヒーローを重ね合わせてみたに違いないのだが、西部劇の主人公たちにはあまり大義がないのに対して、したがって彼らが権力によって排除されることはごく当然と受け取られたのに対して、この映画のなかのアンチ・ヒーローたちは、権力によって一方的につぶされる存在には止まっていない。彼等は権力と対等に戦い、権力をあざ笑うことで、権力を相対化している。

このように、一個人の立場で巨大な国家権力と正面から向き合い、権力を相対化してしまうといった人物像は、この映画以前のアメリカ映画には出てこなかった。そこが当時の観客の目には新鮮に映ったのだろう。この映画が見せた国家権力の相対化という視点は、その後の一連の作品にも受け継がれ、それがアメリカン・ニューシネマという、ある種の運動へと発展していったのだと言える。この作品はそうした点で、非常に大きな影響力を発揮したのである。

原題にあるボニーとクライドとは、映画の主人公となった男女の名である。普通アメリカでは、男女の名前を並べるときには、男を先にし女を後にする。たとえば昔の英語教科書にもあったジャックとベティとかトム・アンド・ジュリーといった具合だ。それを逆にして女の名前を先にしたのには何か深いわけでもあるのか。映画を見る限りでは、男のクライドのほうもなかなか積極的な人間として描かれているが、女のボニーのほうはそれ以上に積極的に描かれている。彼女はインポ気味のクライドを挑発して、ついにセックスすることに成功するし、最後にはクライドとともにテキサス・レンジャーズに銃弾を浴びせられて蜂の巣のようになる。彼女の死に顔には後悔の影はない。自分の人生を自分らしく生き切ったという満足感さえ感じられる。このように彼女は常にクライドの一歩先を歩いている。だから、彼女の名がクライドの名より先に来ることは不自然ではないのだ。これは、日本の浄瑠璃の世界に通じるものがある。浄瑠璃の世界でも、男女の名の並べ方は常に女の名を先にする。それは女のほうが真剣に生きていることの現われなのだ。

映画の中の権力は保安官の形をとっている。西部劇以来のおなじみのパターンだ。軍隊や警察機動隊と違って保安官というのは顔の見える権力だ。その保安官を相手にボニーとクライドは対等に渡り合い、保安官の顔をつぶすような真似をする。後手に縛り上げてからかっているところを写真にとり、それをメディアに流すのだ。おかげでその保安官は面目丸つぶれだ。彼の怒りは公憤というよりも私憤そのものだ。その私憤を晴らす為に、この保安官は権力機構の助けを借りてボニーたちを追い詰め、遂には彼女らを蜂の巣にするのだ。蜂の巣になった敵を見る保安官の表情には、私的な怨恨しか浮かび上がらない。

ボニーとクライドが権力の追求をくぐりぬけて銀行強盗を繰り返すところは、痛快な事柄として描かれている。彼らの行動には別に大義があるわけでもないのだが、彼らが行うとなんとなく格好よく伝わってくる。日本の義賊鼠小僧などとは違って、彼等は単に自分たちの欲望のために強盗を働いているにすぎないのだが、それが結果としては権力への挑戦として映る。そこに観客はある種のかっこよさを感じるというわけなのだろう。しかし、彼らをあまり持ち上げすぎると、露骨な反体制映画になってしまう。この映画を作ったアーサー・ペンには、そこまでのつもりはなかったらしい。

ウォーレン・ビーティ演じるクライドは、刑務所から出てきたばかりで、一文無し、折から世の中は大不況で仕事がない。だから銀行強盗でもするしか道はない、ということになっている。フェイ・ダナウェイ演じるボニーのほうは、ウェイトレスとして屈託した毎日を過ごしているところにクライドと出会い、これこそ私が待ち焦がれていたプリンスだと直感する。この辺の、男女の出会いの機微は、いかにもアメリカ人らしくあっけらかんとしていて面白い。



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