壺齋散人の 映画探検
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ウィリアム・フリードキン「フレンチ・コレクション」:麻薬密売組織と警察



フレンチ・コネクション(The French Connection)とは、フランスとつながりのある麻薬密売組織のことを言う。その麻薬密売組織を摘発しようとするニューヨーク市警の警察官たちの奮闘を描いたのが1971年の映画「フレンチ・コレクション」だ。実際にあった出来事をもとに作られたという。

アメリカン・ニューシネマの傑作のひとつとして位置づけられているが、そのわけは、警察権力に対する冷めた視点がこの映画を貫いているからだろう。この映画の中の警察官たちは、クールな法の執行者というよりは、ホットなゲーム・プレーヤーといった感じで、正義を追及しているというよりは、個人的な怨念に突き動かされているという印象を与える。従って、彼らが犯罪者を相手にとる行動には、悪人相手ならばどんなことも許されるといった、ある種のニヒリズムが漂っている。

とにかくこの映画に出てくる警察官たちは、無法行為すれすれのことを含めながら、自分たちの目的の実現の為には、どんな行為も辞さない。しかし、そんな彼らの奮闘も、巨大な悪を根絶することは出来ない。彼らは仲間内の同士討ちまでしてこの巨悪と戦いながら、結局悪を退治することができなかった。彼らが追い求めた悪の親玉は、彼らの追及を逃れて、彼らの手の届かないところに去ってしまうのだ。何たる無力感。

映画から感じ取れるこの無力感が、この映画を単なる刑事ものにとどめず、アメリカン・ニューシネマの傑作として位置づけさせたのであろう。

ポパイという綽名の刑事を演じたジーン・ハックマンの演技が圧倒的な迫力で迫ってくる。この刑事は、警察組織内のあぶれ者のような感じで、上からの組織的な命令によってではなく、自分自身の感性にしたがって行動するところがある。彼がフレンチ・コネクションと戦う決意をしたのは、別に上から命令されたわけではなく、なんとなくやってみたくなったからだ。彼の上司はむしろ、彼がその仕事をするのを快く思っていない。警察というのはいつも忙しいものなのだ、だからつまらぬことに大きなエネルギーを費やすわけにはいかない。そんなわけで、ポパイと彼の同僚のクラウディ(ロイ・シャイダー)は、ほとんど二人だけで、巨大な麻薬組織に立ち向かうことになる。途中から財務省の麻薬捜査官が加わるが、何故アメリカでは財務省が麻薬にかかわりがあるのか、日本人としては面白いところだ。日本では薬事行政の担当官庁である厚生省が、警察と一緒になって麻薬取締りを行っている。

映画の最大の見せ場は、自分の命をとりにやってきた殺し屋をポパイが追跡するシーンだ。殺し屋はポパイの殺害に失敗した後、電車に乗って逃げる。それをポパイが車で追いかける。その車は一般人から徴発したものだ。有無を言わせずに車を徴発し、殺し屋の乗った電車を追いかける。

電車は高架線上を猛スピードで走り、車はその下を、これもまたすさまじいスピードで走る。他の車に衝突したり、歩行者を跳ね飛ばしそうになったり、交通違反もなにもあったものではない。無法そのものといった運転をした挙句、ついに電車に追いついて殺し屋を追い詰める。そして殺し屋を銃で撃ち殺す。このあたりの画面の運び方は実に小気味よい。

ラストシーンは、ニューヨークの郊外らしいところで展開される麻薬シンジケートの一味と警察の戦いだ。攻撃力では警察のほうが勝っているから、麻薬シンジケートは難なく制圧される。しかし、この戦いの中で、ポパイは味方を誤って射殺してしまう。それは代償としては痛恨のことだったが、その痛恨な代償を支払ったにかかわらず、敵の本命(フェルナンド・レイ)には逃げられてしまう。彼のほうが警察より一枚上だったのだ。彼はそれ以前にも、ポパイの執拗な追跡をまんまと潜り抜けている。要するにポパイは翻弄されつづけなのである。捕まえた連中と言えば、みな微罪で、やがて放免されてしまう。これでは何のために命をかけて悪と戦ってきたのか、ポパイが悔しがるのも無理はない。

こんなわけでこの映画は、警察官たちと悪との壮絶な戦いを描きながら、警察側にかなりシビアな視線を向けている。警察の動機にはいつでも一貫したものがあるわけではなく、また、一般市民を巻き込んでまで大騒ぎをしたわりには、彼らの達成したことはあまり褒められたことにはならない。そんな突き放したような見方が、この映画を貫いているように見える。



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