壺齋散人の 映画探検
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ジョン・シュレジンジャー「真夜中のカーボーイ」:カウボーイにあこがれる田舎者



「真夜中のカーボーイ」という題名は、日本語だけを見せられると、車のマニアかなんかの話だと思わされるが、そうではなくカウボーイがテーマだ。といっても本物のカウボーイではない。カウボーイにあこがれている多少頭の足りない現代人の話だ。その現代人(ジョン・ヴォイト)が、カウボーイの衣装に身を包んでニューヨークに赴き、そこで奇想天外な体験をする、といったたぐいの話である。いわばアメリカ版お上りさんの物語である。

ジョン・ヴォイト演じるカウボーイは、都会で一旗揚げたいと思っているが、彼には自分の肉体のほかましな資本がない。そこでその肉体を活用して金儲けをしようと考える。肉体を活用して何をするかといえば、女の性欲のはけ口を提供して報酬をいただこうというのだ。つまり男の売春業者、男娼というべきものだ。

故郷の南部の町からバスに乗ってニューヨークに着くと、さっそく街の中で女をひっかけようとする。ほとんどの女は当然のこととして侮蔑的な目を返してくるが、一人だけ誘いに乗ってくるのがいた。そこでその女の家へ行ってセックスの相手をしてやり、料金を請求しようとしたところ、かえって金を要求された。なんのことはない、街娼に引っかかっただけのことだったのだ。

そんなことで意気消沈しているカウボーイの前に、一人の冴えない男が客を紹介してやろうと言って近づいてくる。ダスティン・ホフマン演じるホームレスだ。その男の名前はリコというのだが、みんなからはねず公と呼ばれている。足が悪いのでちょこちょこと歩き回る姿が鼠に似ているからだろう。カウボーイはこの男と妙な友情をはぐくむことになるのだ。

リコに紹介された家に行ってみると、相手はホモであった。ホモの趣味がないカウボーイは相手を叩きのめして逃げてくる。町でリコと再会したカウボーイは、お前に支払った手数料を返せと迫るが、リコは小銭しかもっていない。腹が立つが如何ともしようがない。そんなカウボーイにリコは俺のところで一緒に住もうと提案する。カウボーイは支払い遅延でホテルを追い出され、宿なしだったので、リコの提案に乗る。

こうして二人の奇妙な共同生活が始まる。リコが住んでいるのは、廃屋となって解体を待つだけの古びたアパートの一室だ。電気も火の気もない。冬になると寒さが身に応える。なにせ部屋の中にいても、折角の食い物が凍ってしまうのだ。

二人の収入源は、カウボーイが女を相手に稼ぐ金だけだ。なかなか客がつかないで無一文になると、二人で力を合わせて盗みを働き、それでなんとか飢えをしのぐといったありさまだ。だがちょっとしたきっかけで女の客がつくようになり、将来に多少の光が見えたと思った矢先に、リコが重い肺炎にかかる。リコに友情を感じ始めたカウボーイは、稼いだ金で薬を買ってきたり、医者に見せようとするが、リコはそれを拒絶する。それより暖かいフロリダに行きたいというのだ。

かくして瀕死の状態のリコを連れてバスに乗りこみ、フロリダを目指して進む途中、リコはあえなく死んでしまう。

この筋書きから見る限りでは、男の友情の話だと言える。この二人の男たちは、巨大な都会の中で根なし草のように生きている。その二人を結びつけたのは、人恋しさの感情だというふうに伝わってくる。カウボーイのほうは両親に見捨てられて祖母に育てられたが、その祖母が死んでしまっていまは天涯孤独だ。リコのほうは極貧のなかで育ってきてやはり天涯孤独のうえに、足が悪いために人からバカにされ、誰も信じられなくなっている。そんな孤独な者同士が互いに惹かれあって、そこに奇妙な友情が芽生えるというのが、この映画の基本プロットだ。そんなことからこの映画は、アメリカの大都会における人間の孤独を描いたとも言える。

ジョン・ヴォイトのとぼけたカウボーイ役がなんとも堂にいっている。過去の世界からタイムマシンに乗って現代に紛れ込んできたというような感じがよく出ている。このカウボーイをカーボーイと訳した奴は、この映画の醍醐味をよくわかっていないと言うべきだ。



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