壺齋散人の 映画探検
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ウェスト・サイド物語(West Side Story)



1961年のミュージカル映画「ウェスト・サイド物語(West Side Story)は、アメリカはもとより世界中でヒットしたが、日本でも外国映画としては空前の大ヒットとなった。筆者も子どもながら興奮したことを覚えている。どういうわけか主演のリチャード・ベイマーよりも脇役のジョージ・チャキリスの方が人気をはくし、彼が来日した時には大フィーバーとなったものだ。

ミュージカルというのは、だいたいが単純な筋書きなのだが、この映画はかなり複雑なストーリーでできている。それを単純化して言うと、人種間の対立・抗争をシェイクスピアの「ロメオとジュリエット」に重ねている。キャピュレットとモンタギュー両家の対立を白人と非白人の人種間の対立に置き換え、それぞれの人種の男女がロメオとジュリエットのように愛し合ったあげくに、不幸な結末を迎えるというものだ。

対立する人種はそれぞれ映画の中では「アメ公」と「プエルトリコ」ということになっている。そのアメ公とプエルトリコの少年たちがそれぞれギャング団を組んで、ニューヨークの下町を舞台に対立抗争する。アメ公のギャングは「ジェット団」と自称し、プエルトリコのギャングは「シャーク団」と称している。この二つのギャング団がそれぞれ縄張をかけて喧嘩を繰り返すのである。そんな折にアメ公の青年とプエルトリコの娘とが互いに一目惚れする。そこはロメオとジュリエットと変わらない。

二人は人目を忍んで逢引きする。そして結婚の約束を交わすのだが、ギャングたちの抗争に巻き込まれて青年が娘の兄を殺してしまう。だが娘は兄を殺された憎しみより、青年への愛を優先する。だが世の中の摂理はこの二人が結びつくことを許さないとばかりに、青年はプエルトリコ人によって殺される。

青年だけが死んで娘が生き残るところがロメオとジュリエットとの違いだが、二人がそれぞれ所属するものの対立を乗り越えて、自分たちの愛をつらぬこうとするところは、ロメオとジュリエットに異ならない。

アメリカ社会というのは、つねに人種間の葛藤を内在してきた社会なので、こういうテーマはハリウッドにとっては非常に重いものだと思う。それ故なかなか映画には取り上げられなかったのだが、1960年代ともなると、人種問題に正面から向き合おうという機運がアメリカ社会に現われてきて、それに引きずられる形で映画でも人種対立を取り上げるようになった。この映画はそれをミュージカルの形で取り上げたわけだ。

この映画では、地元のアメリカ人と外来のプエルと人とがほぼ対等に描かれているが、実際にはそうではなかったはずだ。プエルトリコ人は外からやってきた少数派として、徹底的に不利な立場に置かれて、迫害されていたはずである。そうした迫害は、この映画の中でも地元の警察が一方的にプエルトリコ人を蔑視するところに現われているが、それはちょっとした言及にとどまり、アメ公とプエルトリコはあくまでも対等な立場で戦うのである。

両者が対等に見えるのは、ギャングのメンバーがみな社会の最底辺にいるためだろう。アメ公というのは白人を意味するが、白人にも色々なランクがある。この映画の中のアメ公のギャングはポーランド人だったり、移民の子どもだったりして、彼ら自身他の白人から見下されている。それ故彼らは We are sick と叫んだり、俺たちの境遇は Social decease の結果なのだと言ったりする。つまりこの映画は、白人と非白人との人種対立を描きながら、白人社会内部の格差をも批判しているわけである。

プエルトリコ人のリーダーで、ナタリー・ウッド演じる娘の兄の役をジョージ・チャキリスが演じているのだが、この俳優は体のこなしがうまく、ダンスに迫力がある。その迫力がこの映画を魅力あるものにしているようである。




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