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ハーツ・アンド・マインズ( Hearts and minds ):ピーター・デイヴィス



「ハーツ・アンド・マインズ( Hearts and minds )」は、ベトナム戦争を取り上げたドキュメンタリー映画である。公開されたのは1974年。アメリカがベトナムから撤退したのが前年の1973年、ベトナムでの内戦が終結するのが翌年の1975年、ということで、この映画の公開時には、ベトナム戦争はまだ過去のことではなく、現在進行中のことであった。そんなこともあってか、べトナム戦争に対して批判的な視点が強く現れているとはいえ、批判一辺倒ではなく、アメリカの保守派の言い分にも大きく時間を割くなど、なるべくフェアに扱おうとする意気込みも感じられる。

しかし、この戦争は、どんな理屈をつけようが、アメリカという超大国がアジアの小国に仕掛けた戦争であり、ベトナム人にとっては、災厄であるとともに、自分たちの自由を守るためには命を懸けて戦わねばならない戦争であった。映画は、アメリカの政治指導者たちがこの戦争は正義のためだったと主張するのを紹介する一方、戦車や爆撃機で乗り込んできて、大勢の同胞を殺しつくしているアメリカに対するベトナム人の怒りを描いている。

映画の始めの部分では、歴代のアメリカ大統領の演説をはじめ、ベトナム戦争にかかわった政治指導者たちの主張の紹介に多くの時間を割いている。その主張とは、ひとことで言えば、共産主義の脅威から自由を守るというものだった。自由というのは、アメリカ的な価値観を別のことばで言い換えたものである。要するにアメリカ的な価値観を世界に広めるためにこの戦争を行っている、だからそれは正義の戦争だ、というのが彼らの言い分である。こうした言い分は、アフガン介入やイラク戦争などの時にも使われていた、それを思うとアメリカという国は、朝鮮戦争以降ひっきりなしに戦争をしてきており、それらがすべてアメリカ的な価値観の擁護という旗印の下に行われた、ということがよく見えてくる。

一方ベトナム人の側は、アメリカ人によって殺されている民衆が出てくるばかりで、政治指導者は画面に登場しない。せいぜいベトコンと思われる人物が、米兵によって頭を銃弾でぶち抜かれ、すさまじい血吹雪を上げているところが映し出されるに過ぎない。それ以外は、ナパーム弾から逃れようと裸で逃げ回る少女や、爆撃によって殺された子どもたちなど、弱い立場のベトナム人が災厄に見舞われている場面が出てくるばかりである。おそらく、映画製作者は、ベトナム側の政治指導者に、コンタクトをとることが出来なかったのだろう。この映画の製作中には、ベトナム戦争はまだ完全には終わっていなかったわけだから、仕方がないのかもしれない。

それにしても、ベトナム人を殺す側のアメリカの兵士の表情は、ほとんど人間的なものを感じさせない。というより、シニックであると言ってよい。彼らにとっては、人を殺すことは任務の一環なのであり、そこに個人的な感情を持ち込む余地はない。せいぜい、人殺しをビジネスとして行うことに徹するくらいだ。ビジネスだから、なによりも効率的に仕事をすますことが重要になる。効率的にやらなければ、自分もやられてしまうかもしれないからだ。そんなわけだから、自分の行っていることがどんな結果をもたらすかは考えない。ただ機械的に爆弾を落としたり、ナパーム弾を投げつけたり、ベトコンに通じていると断定された人々を、家もろともに消滅させるばかりだ。

面白いのは、ベトナムの捕虜になったという兵士が出てきて、アメリカ人たちにベトナム戦争の正義を訴え、自分に続いて戦場で戦って欲しいと訴える場面が出てくることだ。この元戦争捕虜は、自分がどのようにして捕虜になり、どのようにして解放されたかについては一言もしゃべらない。ただただ、若者たちに自分に続いて戦場に赴いて欲しいと叫んでいるだけだ。いまの時点でそういう主張を聞くと、ずいぶん偏った意見だという感想を持つが、この映画はまだ戦争が終わっていない中で作られていることを考えると、ありえそうな気もする。若者たちには、ベトナムに行って戦う可能性が、まだ完全に消えたわけではなかったのだ。

日本でなら、戦争捕虜になった人物の意見など誰にも相手にされないだろうが、アメリカでは、それが愛国心の発揚に利用できると考えられていたわけだ。

映画では、ベトナム戦争からアメリカが手を引いたのは、アメリカ国内での反戦気分の高まりのためだ、というふうに描かれている。反戦気分の高まりは、徴兵の対象である若者自身のなかから自発的にまき起こったほか、ベトナム戦争に批判的なジャーナリズムの影響もあった。そんななかで、いわゆるペンタゴン・パーパーのリークで一躍時のひととなったダニエル・エルズバーグが特に重要な役割を果たしたとして紹介されている。彼は歴代の大統領をはじめ、アメリカの責任ある政治指導者たちが国民にうそをつきながら、戦争に突き進んで行ったと告発している。

ベトナム戦争では、ゴジンジェム政権以降の南ベトナム政府も重要なプレイヤーだったわけだが、彼らはアメリカの影に隠れて存在感が薄い。映画は、彼らの支持基盤である南の大富豪たちの腐敗振りをさりげなく描き出すことで、南の政権がたんなるアメリカの傀儡であると暗示している。その傀儡であるグエンバンチューの政権を、アメリカは一方的に見捨ててベトナムから撤退したわけだ。この映画の公開時、その政権は完全に消滅してはいなかったが、再び浮き上がる可能性は全くなかった。

アメリカはこの戦争を、明確な宣戦布告なしに始め、明確な戦争終結手続きを経ずにやめた。そのため、この戦争について、深く反省するところがなかった。米軍司令官のウェストモアランドなどは、政治の意向で軍は戦争から手を引いたが、まだまだ戦う余力は十分にあったなどと未練がましい言い方をしているくらいだ。だが、戦争を曖昧に終わらせたことで、アメリカ軍の犯した多くの戦争犯罪に蓋をすることができた。アメリカというのは、自分たちの一方的な理屈にもとづいて弱小な国に戦争をしかけ、散々あくどいことをしながら、その責任を全くとることなく今日まで来た、稀な国と言うべきであろう。

なお、この映画の中では、アメリカ人がベトナム人を侮蔑する言葉を発する場面が頻出する。ダークだとか、小さな子どもだとか、東洋人の命は安い、といった言葉だ。使っている本人は明確に意識していないのかもしれないが、それらの言葉がアメリカ人の東洋人に対する軽蔑心を反映していることは見て取れる。その軽蔑心は、東洋人に対する得体の知れない恐怖心と共存しているようだ。





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