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ジョシュア・オッペンハイマー「アクト・オブ・キリング」:インドネシアの大量虐殺事件を追う



ジョシュア・オッペンハイマーのドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」は、1965年から翌年にかけてインドネシアで起こった大規模虐殺事件を取り上げたものである。この事件は日本のメディアでもとりあげられ、ブンガワン・ソロが死体で埋まったなどと伝えられたが、事件の背景や実態については、あまり明らかにはされなかった。当時高校生だった筆者などは、新聞や雑誌で事件の真相に迫ろうと思ったが、雲を掴むようで、わからないことが多かったことを覚えている。

この事件は、スハルトがスカルノに仕掛けた権力闘争との説がいまでは有力である。この権力闘争の中で、当時有力だった共産党の党員を中心に、100万人とも300万人ともいわれる人々が虐殺された。この映画の中で出てくる政府高官が250万人の共産党員を殺したというようなことを言っているから、そのあたりが信憑性の高い数字なのだろう。この虐殺は、ポルポトの虐殺に劣らず陰惨なものだったわけだが、それを遂行したのがパンジャシラと言われる民兵組織とプレマンと言われるやくざ者たちであったというのがインドネシアらしいところだ。やくざ者はともかく民兵組織というのはインドネシア独特の勢力で、旧日本軍も対オランダ闘争の戦力として育成した過去がある。この組織は、国家至上主義的な極右団体で、いまでもかなりの政治力を持っていると言われるが、これが中心となって250万人にものぼる同国人を虐殺したわけである。言い換えれば、このような政治的集団の介入がなければ、こんなにも膨大な数の国民を、一気呵成に殺しつくすことはできなかっただろう。

この虐殺を仕掛けたのがスハルトだったことについては、虐殺を実行した殺人者たちが、スハルト政権下では全く責任を取らされることがなかったことからも明らかであろう。責任を取らされるどころか、彼らは自分たちのやった殺人行為、この映画の言葉で言えばアクト・オブ・キリングを、おおっぴらに自慢していたのである。一方、殺された側の被害者たちは、やられ損を強いられ、このことについて声を上げることを暴圧されていた。このことを表沙汰にすれば、命の危険があったゆえに、インドネシアでは、これは民衆の間で話題に上ることはなかったのである。それが、国民の間で話題にもなり、なおかつそれを映画にしてもよいという動きが出てきたのは、スハルトが死んで、この問題へのタブー意識が弱まったからだろう。それでも、被害者の視点に立って、この虐殺を描くということは、いまのインドネシアではまだできない。そこで、この映画は、虐殺を実行した犯人の視点から、この虐殺を描いているというわけなのである。

この映画に出てくる殺人者は三人。プレマンを自称するアンワル、その友人の肥満漢ヘルマン、そして不敵な面魂をしたもう一人の殺人者ブクカドクだ。彼らはこのドキュメンタリー映画の企画を持ちかけられたとき、二つ返事で協力を申し出た。言い分が揮っている、自分たちのやった行為を世界中に知ってもらいたい、自分たちはならず者だが、共産党はもっとならず者だ、そのならず者を殺すところを世界中のみんなにも是非知ってもらいたいというのだ。要するに自分の行った犯罪行為について、なんらのやましさをも感じていないのだ。

映画は、この殺人者たちが、共産党員のレッテルを貼られた人々や華僑たちを、拷問したり虐殺したりするところを、彼ら自身の演技によって再現していく。なにしろ人を殺すことをなんとも思っていない連中が、ゲームを楽しむようにして人殺しを楽しんでいる、映像からはそんな雰囲気が伝わってくる。彼らは人殺しに生きがいを感じており、自分たちはハッピーだと心から感じているわけなのである。そんな彼らの表情を見れば、普通の感性を持った人間なら、誰もが反吐が出そうになるに違いない。

この映画の面白いところは、過去の犯罪を暴露する一方、それと平行して現在のインドネシアの腐敗を、さりげなく映し出しているところだ。たとえば、地方議会の選挙。インドネシアでは、議員とはネクタイをした泥棒であり、その議員を選ぶ選挙とは買収を意味するとばかり、金権選挙の腐敗振りが横行するさまを映し出す。この映画のキャストの一人へルマンも、どういうわけか映画の撮影中に地方議会に立候補する。その動機が面白い、地方議員になれば利権にありつくことができ、民衆から莫大な金をゆすりとることができる、自分は労せずして億万長者になれる、というのである。あきれて物も言えないとはこのことだが、当の本人は何の悪びれる様子もない。ただ彼の場合には、選挙には落ちてしまった。買収資金が足りなかったためだ。

彼ら殺人者の同類たるやくざ者たちは、街の華僑から金を巻き上げることを主な収入源にしている。その彼らが華僑をゆすって金を出させるシーンも出てくる。日本のやくざと違って、彼らのやり方は天真爛漫と言えるほどあっけらかんとしたものだ。金を出さないと痛い目にあうぞ、そう脅してゆすりとるのである。

民兵組織パンジャシラが、いまだに政治的な影響力を持っている様子も紹介される。この組織は300万人の構成員を要し、徹底した国権主義を掲げている。国の団結をゆるがすような勢力つまり共産主義者は、しらみつぶしに叩きのめす。そう公言してはばからない。そんな彼らに対しては、副大統領さえもがおべっかをつかって迎合する。

この民兵組織はやくざ者とも強いネットワークをもっており、1965年の大虐殺に際しては、やくざ者と一体となって虐殺を遂行した。現在の彼らの資金源は、やくざ者たちのそれと一部オーバーラップしているようだ。たとえば土地取引への介入など民事事件への介入を通じて手数料と称する金をゆすり取るといった具合だ。

この映画を見ると、インドネシアというのはいったいどんな国で、その国民はどんな人間たちなのかと問いかけたくなる。こんなひどいことがまかり通るような社会は、平和で安全な日本に暮らしている人々には想像もつかないだろう。筆者は四半世紀前にインドネシアを訪ねたことがあるが、その折に見た普通のインドネシア人は、慇懃で勤勉だという印象だった。まさか彼らの同胞たちが、近い過去にこんな陰惨な事件を起こし、しかもそれについてなんらの反省もしていないなどとは、当時の筆者には思いもよらなかったものである。



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