壺齋散人の 映画探検
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二十四の瞳:木下恵介の世界



「二十四の瞳」は、木下恵介の最高傑作としての評価があるとともに、日本の映画史上において最も成功した作品の一つである。この映画が公開された1954年には、黒沢明の「七人の侍」も公開されているが、その年のキネマ旬報ベストテンでは、「二十四の瞳」が一位になっている。それほど、当時の日本人の支持が強かったということだろう。当時の日本人ばかりではない、21世紀における今日の日本人の心に訴えるものも持っているのではないか。少なくとも筆者などは、この映画をみて感動の湧き上がるのを禁じ得なかったものだ。

まず、この映画が公開当時の時代の日本人から圧倒的な支持を集めた理由はわかるような気がする。当時は敗戦からまだ9年しかたっていなかった。日本人はまだ誰もが貧しかった。それ以上に、戦争によってこうむった傷から立ち直りきれていなかった。世間には、戦争で子どもを失った親や、夫を失った妻、そして傷痍軍人となって細々と生きながらえている人々が大勢いた。そうした人々の心に、この映画が深く訴えたことは想像に難くない。訴えるどころか、涙を流さしむることによって、そうした人々の心を癒しえたのではないか。このような意味で、この映画は、大袈裟に言えば、日本人と言う民族の心の癒しをテーマにした映画だったともいえる。

といって、この映画がそうした癒しのテーマをストレートに表現しているというわけではない。むしろ、貧しさに対する怒りとか、不幸な運命についての諦観とか、社会の理不尽さに対する抵抗とか、癒しとは逆のベクトルの感情がもっぱら描かれている。それが何故癒しをもたらすかと言えば、観客が映画の中に没入することで、自分自身怒りや諦観や抵抗の感覚を共有し、そのことを通じて、自分自身の感情が洗われるような体験をするからではないか。この映画は、観客に対して、他人ごとを見ているのではなく、自分自身の運命を体験しているかのような感じを持たせるのである。

この映画が、今日の日本人にとっても訴えかけるものがあるというのは、上述のような体験が、時代を超えた普遍的なものであることのあらわれだと思う。人間への共感や、弱い者へのいたわり、そして理不尽なことに対する怒りなどは、時代を超えた普遍性を持っている。そうした普遍性が、それこそ時代を超えて、今日の日本人にも訴えかけてくるのだろう。そうした意味でこの映画は、いわゆるヒューマニズムものの傑作といえるのではないか。

映画は、壺井栄の原作をほぼ忠実に再現している。原作では、瀬戸内海のある島が舞台だということになっているが、映画では壺井の故郷である小豆島を舞台としている。その島の、昭和3年春から昭和21年春までの、18年間の時間の流れを描いているということになっている。その島の小学校の分校に赴任してきた女教諭と彼女の受け持ちの生徒12人の心の交流が主なテーマだ。

前半はもっぱら、女性教諭大石先生(高峰秀子)と子どもたちのふれあいを描いている。子どもたちは一人残らず絣の着物を着て、いつも群をつくって遊んでいる。大石先生は、洋服を着て自転車に乗って学校に現れるが、それを見た島の人たちはびっくり仰天する。島の大人たちにとっても、洋服は珍しいのだ。まして自転車はもっと珍しい。大石先生が、そんなスタイルをとるには訳がある。なにせ自転車でも50分はかかるという遠距離通勤なのだ。歩いてはとても行ける距離ではないし、自転車に乗るには和服では不都合なのだ。

大石先生の授業の中で、天皇陛下はどこにいらっしゃるかがテーマになった。子どもたちが、天皇陛下は押入れの中にいると答える。それは、天皇の御真影が押入れのなかに保存されていることを意味しているのだ。天皇制を巡ってのそれ以上の議論は展開していかない。小学校一年生には、まだそんなことは現実味をもたないからだ。

子供たちのいたずらが原因で大石先生は足に大怪我をする。学校に出てこられなくなった先生を、子どもたちが長い道のりを歩いて見舞いに行く。その途中、お腹を減らした女の子が泣き出す。ここで、子どもたちの貧しさがちらりと垣間見られるのだが、かれらの貧しさが本格的に描かれるようになるのは後半部においてだ。子どもたちを迎えた大石先生は、腹をすかせた子どもたちにご飯を食べさせ、浜に出て記念写真を撮る。この写真はその後、大石先生や子供たちにとって、生涯にわたっての心の拠り所となるであろう。

時代は五年後、小学校6年生になった子どもたちが、大石先生のいる本校に移ってくる。先生は再びかれらの受持ちになる。しかし、先生と子どもたちを待っていたのは、厳しい現実だった。貧困が、まだ幼い子どもたちの上に、暗く覆いかぶさってくるのである。

貧困のために、学校をやめて小さな妹の世話をしなければならない女の子がいる。貧困のために、親に売られて見知らぬ地に去って行かねばならない子もいる。そうした絶対的な貧困は、今の時代を生きるに人たちには実感がわかないだろうが、かつての日本社会には実際にあったことなのであり、この映画を見ていた当時の多くの人たちにとっても他人ごとではなかったはずだ。

この映画の中で、ひとつだけ青春の息吹を感じさせる場面は、大石先生が子どもたちを連れて船で修学旅行をする途中、結婚したばかりの夫が乗り込んでいる船とすれ違う場面だ。先生(結婚しているからもう大石先生ではないはずだ)は、うれしそうな顔をして、夫の乗っている船を見つめる。夫のほうでもそれに応えて、手を振って合図する。その様子が微笑ましくて、いかにも日本人の新婚夫婦らしい。

修学旅行先の金毘羅宮前で、先生は思いがけずかつての教え子に出会う。大阪にいったとばかり思っていた「まっちゃん」という女の子が、門前のうどん屋で下働きをしていたのだ。その様子を見た先生は心を痛める。しかし、当時は、売られた女の子の運命がもっと悲惨なものだったことを思えば、これでも多少は救われるのかもしれない。

卒業を前にして、先生は生徒たちに作文を書かせる。テーマは、将来への希望だ。女の子は女の子らしい希望を書き、男の子たちは軍人になる夢を語る。世の中は、戦争に向かって進みつつある真最中なのである。

子供たちの未来を考えると、先生の気持ちは暗澹となる。そこで、子どもたちに向かって、自分だけはしっかりしなさいと励ますのだが、その励まし方が、社会を批判するようにも聞こえて、先生は「赤」呼ばわりをされる。そんな先生を校長は、「見ざる、言わざる、聞かざる、の姿勢が肝心だ。立派な国民を育てるのがあんたの義務だ」といって厳しく叱責する。そんなことにすっかり嫌気がさした先生は、ついに先生をやめようと決断する。

こうして時代は戦争に向かって突っ走り、世の中は戦争一色になっていく。成人した教え子たちが出征し、夫もまた出征する。出征を描く場面は、戦時中に作った映画「陸軍」の出征の場面を思わせる。あれほど規模は大きくはないが、隊列を組んだ兵士たちの後に、島の人々がやはり隊列を組んで進み、みな一団となっている。「陸軍」の場合のように、息子の姿を追いかける母親の姿は出てこないが、ひとりひとりの母親たちの表情には、深い悲しみが刻まれている。

ついに、8月15日がやってくる。すっかり兵隊になるつもりでいた息子たちが、戦争に負けてがっかりしているところを、母親である先生は、「これから戦死する人はいない、生きている人は戻って来る」と諭して、未来へと希望をつなごうとする。しかし、夫は戦死してしまった。また、小さな娘は柿の木から落ちて死んでしまう。飢えに駆られて木に登り、落ちたのだった。でも、絶望ばかりはしていられない。

先生は再び教壇に立つ決意をする。その最初の日、先生は息子が漕ぐ船に乗って岬の分校へと向かう。夫を失った先生にとって、いまや息子が生きがいであり、また頼りの綱、心の支えなのだ。昔の日本人が、いかに深い親子の絆で結ばれていたか、この映画は教えてくれる。

先生が初めて教壇に立ってから18年が過ぎていた。新たな教え子の中には、昔の教え子の子どももいる。その昔の教え子たちから、先生はささやかな感謝の宴会に招かれる。その席に集まった教え子は、あの12人のうちの7人、男の子が2人、女の子が5人であった。男の子のうち3人は戦死し、ひとりは負傷して盲目になっていた。しかし、生き残ったかつての教え子たちは、いまだに先生との絆を大事にし、先生のあらたな門出のために自転車を贈ってくれた。

映画の最後では、その自転車に乗った先生が、雨の中を岬に向かって走っていく場面が映される。それは、かつての若い頃の大石先生のような溌剌さを感じさせることはない。それは、時間の経過だけが原因ではないだろう。それが何なのかは、観客一人一人に考えてもらいたい。木下恵介はそういっているようでもある。

この映画のなかの高峰秀子は、実にすばらしい。喜びにせよ、怒りにせよ、悲しみにせよ、思いやりにせよ、この人の眼は、あらゆることを如実に表現できる眼だ。




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