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木下恵介「夕やけ雲」:家族の犠牲になる子どもたち



木下恵介には、貧しい庶民の生きざまを、そっと寄り添うような視線で描いた作品が多い。「夕やけ雲」もそうした作品のうちの逸品だ。家の貧しさゆえに、船乗りになりたいという将来の夢をあきらめ、また愛する小さな妹と別れなければならない、そんな少年の悲しさを描いた作品だ。家のために犠牲になる話は溝口健二も好んで描いたが、溝口の場合には、犠牲になるのはいつも女だった。それを木下は、少年を犠牲にさせたのである。そこのところが、面白い。

公開されたのは1956年だから、日本はまだ戦争の痛手から立ち直っておらず、貧しい人々が沢山いた時代だ。そうした人々にとって、この映画に出てくる貧しい人々の生き様は他人事には見えなかっただろう。貧しさゆえに夢をあきらめるなどという話はどこにでもころがっていたはずだ。それ故、当時の観客がこの映画の登場人物たちに感情移入したとしても不思議ではない。このように、木下映画のもっとも大きな特色は、同時代人と視線を共有しているというところにある。

映画は、東京の下町の一角で細々と商売をする貧しい魚屋の一家を描いている。病弱な父親(東野栄次郎)と気の弱い母親(望月優子)、そして主人公である16歳の少年を含む5人の子どもたちからなる一家である。

父親は心臓が悪いようだが、貧しくて健康保険にも入れず、医療費が心配で医者にもかからないでいる。こんなに貧しくなったのは戦争のせいだと父親はいう。戦争のおかげで商売がだいなしになり、こんな有様に陥ったのだと愚痴をこぼす。そんな亭主でも母親は馬鹿にはしない。どんなに貧しくても、親子揃って生きていられるのが幸せだと思っている。だから、親戚から子どもの一人(次女)を養女に欲しいといわれても、手放さないで頑張っている。

長女(久我美子)は、自分の家の貧しさにほとほと嫌気をさし、甲斐性のある男を亭主にして貧しさから脱出しようと考えている。それゆえ、恋人が経済的に破たんすると平気で捨て、中年の金のある男と結婚する。ところが、その結婚式に両親を呼ぼうとしない。貧しい両親を恥に思っているのだ。この長女は後になって、自分が捨てた男と縒りを戻して遊び歩くようになるであろう。かなりエゴイスティックな女なのだ。

主人公の少年(田中晋二)は16歳の高校生で、将来の夢は船乗りになることだ。少年には親しい友人がいて、お互いに夢を語り合う。しかし、少年は自分の家の貧しさを知っているので、夢がかなうかどうか心配でもある。その少年に向かって父親は、自分が働けなくなったら、自分のかわりに魚屋をやってくれという。そんな親の言葉を、少年はやりきれない気持ちで受け止める。

しかし、父親があっさり死んでしまう。長女のことで激昂したところを心臓発作に見舞われ、それがもとで死んでしまうのだ。父親は病弱とはいえ、大黒柱として一家を支えていた。それが死んでしまったわけだから、少年がかわって大黒柱とならねばならない。母親から頼りにされて、そのことを覚った少年は、船乗りになる夢をあきらめ、高校も中退して家業の魚屋に専念することになるだろう。

この映画には、いくつも見どころがある。まず、一家が住んでいる家だ。家は二階建てのようだが、大部分を魚屋のスペースにあて、居住空間は最低限に抑えられている。成人した長女と思春期の少年とが同じ部屋で起居しているし、ほかの小さな子どもたちは両親と同じ部屋に寝ているのだろう。

5人の子どもたちは大分年が離れている。長女と末の子どもとでは20歳ばかりも離れている。いまではこんなことはなくなったようだが、昔の女性は沢山子どもを生んだので、最初の子どもと最後の子どもとでは年が離れてしまうのは普通のことだったのだろう。

次女はまだ小学校に上がるまえの小さな子どもだというのに、親の手伝いをして幼い弟の面倒を見ている。弟を背中にしょってあやしつけているのである。なにしろ両親は商売に忙しい。だから、上の子どもが下の子どもの世話をするのは当たり前なのだ。

映画の中で、電話の場面が幾度か出てくるが、この一家には電話はない。高くて入れられないのだ。それで、近所の知り合いの家の電話を借りる形で、取り次いでもらっている。こんな光景も、携帯電話が普及した今日では考えられないことだ。

舞台は東京の片隅ということになっているが、どこだとは明示していない。最初の方では、高台から低地を見下ろす光景が、日暮里の高台から根岸の里を見下ろしているかのように見え、そうだとすれば映画の中の商店街はいまの谷中銀座のようにも思われ、またその近くを流れている小川は暗渠になる前の藍染川かとも思われたが、後半の部分では馬込薬局などというのが出てきたりもするので、はっきりしたことは分からない。

クライマックスは、生活に窮した母親が次女を養女として親戚に与える場面だ。死んだ父親の弟が次女を貰い受けて、駅まで歩いていくところを、少年も見送っていく。そしていよいよ別れという段になって、少年は妹に向かって、きっといつか迎えに行くからな、という。それを聞かされた少女は、いままで抑えていた感情が一気に爆発して、烈しく泣きだすのだ。

少年は、親しくしていた友とも別れなければならなくなる。父親が北海道に転勤するにあたり、引っ越ししなければならなくなったというのだ。

こうしていくつかの別れを経験しながら、少年は大人になっていくのだろう。最後の別れは、自分自身の幼さとの決別であるはずだ、とこの映画は語っているかのようである。



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