壺齋散人の 映画探検
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木下恵介「女の園」:女子大生たちの闘い



木下恵介の1954年の映画「女の園」は、京都のさる女子大学を舞台に、学校当局の封建的な指導に反抗する女子大生たちの戦いのようなものを描いている。この戦いは中途半端なものに終わるようなので、何かすっきりしないものを感じさせるが、女子大生の中からこういう運動が起きたこと自体日本の歴史上画期的なことだった、ということをアピールしたかった映画と考えてやればよいだろう。

いまどき女子大生の学校当局への反抗運動が話題になることはないと思うが、この映画が作られた当時は、それなりに話題になる要素に富んでいた。1954年前後と言えば、講和条約が発効して日本が独立を回復し、隣の朝鮮半島に戦争が勃発したことなどもあって、戦後民主主義による自由な空気に陰りが出ていた時代である。そうした時代状況を当時は逆コースと呼んだが、この映画の中でもその言葉は出てくる。それのみならず、アカとか破壊分子とかいう言葉で、戦後の民主主義を守ろうとする人々への攻撃も強まっていた。この映画はそうした封建的な勢力による抑圧に対して立ち向かう女子学生たちの戦いぶりをテーマにしたものだ。

舞台となるのは京都のある架空の女子大学ということになっているが、建物の様子をよくみると立教大学によく似ている。それはともかくとして、この女子大学はミッションスクールでもなく、また仏教各派の後援があるわけでもなく、完全に自力で成り立っている私立大学である。財政基盤が弱いようで、京都の富豪の援助を仰いでいる。そんなこともあって、女子教育には権威主義的な色彩が強い。女子学生たちに学問を授けて自立させようというのではなく、良妻賢母を育ててよい嫁入り先が見つかるようにしてやろうというような古い教育理念に凝り固まっている。したがって学生への指導は、古風な道徳観念に従っている。女性はあらゆる社会的な権威に従順であるべきだというのが、そのモットーである。

この教育理念やら、それに基づく指導のあり方に対して、女子学生たちは息苦しさを感じる。とりわけ寄宿生活を送っている学生たちは、教室のみならず日常の生活まで学校当局の干渉を受ける。その干渉にまだ若くて血気盛んな女子学生たちが反抗するのだ。

高峰三枝子演じる校長兼寮監が学生たち、とくに寄宿生たちに対して微細なことまで干渉する。寄宿制の中にはこれにおとなしく従っているものもあるが、大部分は反発している。その中でも久我美子演じる女子学生は、親が金持ちでこの学校を財政的に援助しているということになっているのだが、その彼女が大学改革運動の先頭になってほかの生徒たちをけしかける。ところが彼女は大学の大事な後援者の娘ということもあって、大学当局は彼女に強く出ることができない。そこで比較的立場の弱い生徒を狙い撃ちにしていじめるようなことをする。

この立場の弱い生徒の中に高峰秀子演じる寄宿生がいるのだが、彼女はやや頭が鈍いらしく、学業についてもまた寄宿生活についても事あるごとに寮監らの干渉を受ける。それが辛くなった彼女はついに自殺してしまい、その自殺をめぐって大学は大騒ぎになるというのがこの映画の基本プロットである。

木下がどういうつもりでこの映画を作ったのかいまひとつ明らかではない。戦後民主主義とそれに対する逆コースと言われるような現象の意味を、映画を通じて考えたいということなのだろうか。映画のなかで強調されているのは、女子大学の封建的な教育方針とそれに対する女子学生たちの反抗ということだが、当時このような反抗が社会現象として問題になっていたのかどうか。

意地悪い寮監を演じる高峰三枝子はなかなか堂に入った演技をしている。それに対して高峰秀子のほうは、役柄が多少頭のよわい女性ということもあるが、いまひとつさえない印象だ。同じ頭の弱い女でもカルメンのような溌溂としたところがあればともかく、この映画の中の高峰秀子はメソメソと泣いてばかりいる。彼女には気の毒な役回りと同情すべきところだろう。彼女にはむしろ、久我美子が演じていたような気の強い女性の役が似合っている。



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