壺齋散人の 映画探検
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どん底:黒沢明の世界



黒沢明の映画「どん底」は、マクシム・ゴーリキーの同名の戯曲を映画化したものである。「どん底」を映画化したものとしては、フランスの映画作家ジャン・ルノワールが1936年に作った作品が有名だ。ルノワールの映画は筆者も若い頃に見たことがあるが、主役格のジャン・ギャバンはともかくとして、男爵を演じたルイ・ジューヴェの演技が印象的だった。黒沢の映画では、男爵に相当するのは千秋実演じる元旗本の「殿さま」だが、映画の中でもっとも印象的なキャラクターは、主役格の三船敏郎を別にすれば、左卜全が演じる巡礼風の旅人の方だ。これは原作の中でのルカという巡礼に相当する者で、原作では最も光って見える人物だ。したがって黒沢の作り方は、ルノワールよりも原作に近いと言える。

原作では、ロシアの一地方都市の木賃宿を舞台にして、貧しい人々の希望と絶望が描かれている。木賃宿の住人の一人「泥棒」と、木賃宿の女将の妹との恋、それにからんで女将による亭主殺しのたくらみということを別にすれば、筋らしい筋はなく、登場人物がそれぞれに勝手なことを言っているといった設定だ。それらの勝手な言い分とは、世の中に対する呪いであったり、明日へのかすかな希望であったりするわけだが、そうした言い分を通じて、帝政ロシアの社会的な矛盾が浮かび上がってくる、という仕掛けになっている。そういう意味で、ゴーリキーの原作はリアリズムに基づいた社会派劇という評価を得ているわけなのである。

黒沢は、ゴーリキーの設定した舞台を、恐らくは徳川時代の日本のどこか片隅に、そっくりそのまま移し替えている。ロシア人が日本人になり、帝政ロシアの抑圧的な社会が徳川時代の封建的な社会になっているほかは、ほとんどそっくりそのままである。舞台として出てくるのは木賃宿だけだ。外の世界は、金のできた住人がたまに飲みに出かけるところとして暗示されているだけで、実際に出てくるわけではない。登場人物たちも、原作に出てくる人間たちとほとんど変わっていない。セリフにも似たところがある。もっとも帝政時代のロシア人と徳川時代の日本人が同じようなことをいうわけはないから、そこのところは適当にアレンジされている、といった具合だ。

木賃宿の亭主(中村鴈治郎)、女将(山田五十鈴)、女将の妹かよ(香川京子)、女将の叔父の岡っ引き(上田吉二郎)、木賃宿の住人の一人泥棒捨吉(三船敏郎)といった主要人物たちの役柄設定と、彼らの織り成す物語は、ほぼ原作と同じである。違うところは、原作では愛し合うことになっている泥棒と女将の妹が、黒沢の映画では泥棒の片思いに終わるということだ。泥棒の捨吉は女将の妹おかよを姉夫婦の虐待から守ろうとして誤って亭主を死なせるのだが、そんな捨吉をおかよは、姉ともども官憲に売り渡してしまうのだ。

これらの主要人物を囲んで、木賃宿の住人達が、それぞれの因縁を抱えながら、めいめい勝手なことを言い合って生きている。落ちぶれた旗本で皆から殿さまと呼ばれている男(千秋実)、理屈っぽいところのある遊び人(三井弘次)、セリフを忘れた役者(藤原釜足)、駕籠かき(渡辺篤と藤田山)、飴売りの女(清川虹子)そして鋳掛屋(東野栄次郎)とその女房(三好栄子)などである。彼らはそれぞれに、自分のいまの境遇について不満がないわけではないが、かといって世の中を恨むというでもない。どこか今の境遇を運命のように受け入れて、達観しているところがある。そこは、ゴーリキーの原作とは異なったところだ。ゴーリキーの原作では、登場人物たちはそれぞれに自分の境遇について深刻に絶望しているし、絶望する一方で、明るい未来に対する希望をも失っていない。つまり、いささかの主体性を持った人間たちとして描かれている。それに対して、黒沢のこの映画に出てくる人物たちには、そのような主体性が感じられない。彼らは受け身になってただ流されるばかりなのだ。

彼らの能天気ぶりは、時たま歌う歌の文句にもあらわれている。ゴーリキーの原作で歌われる歌は、「明けても暮れても牢屋は暗い、よるひる牢番えい、やれ!、わが窓見張る。見張ろとままよ、おいらは逃げぬ。逃げはしたいが、えい、やれ!鎖が切れぬ」といった具合に怨念のこもったものだが、黒沢のこの映画では、「テンツクテンツクテンツクテン、コンコンコンコンコンチキショー」といった具合に意味のない呪文のような文句が、おもしろおかしそうに繰り返されるばかりだ。そこには反骨とか怨念といったものは少しも見当たらない。

おもしろおかしく、という点では、住人達のもっている喜劇的雰囲気がこの映画の独特なところだ。ゴーリキーの原作では喜劇的な面はあまり表には出てこないが、この映画では、一人一人の人間に喜劇的雰囲気を感じる。というのも、渡辺篤、左卜全、藤原釜足、東野栄次郎といった、そもそもの喜劇役者か喜劇的な雰囲気をもった俳優が多く出て来るからでもあろう。

左卜全が映画の中で放っている光も独特のものだ。巡礼崩れの旅人であるこの男は、世の中にすっかり達観した様子を漂わせている。死につつある鋳掛屋の女房に、あの世はどんなところかと聞かれて、あの世に行けばきっと一息つけるから、安心して行きなさいといったりする。その言葉を聞いた女房は安らかに死んでいく。その一方では、捨吉とおかよに向かって、こんな所から出て行って、二人で人生をやり直せといったりもする。不思議な人間なのだ。

こんなわけでこの映画は、筋らしい筋がないままに、登場人物たちの愚痴めいた言い分がたいした脈絡もなく展開していく。そのうち、捨吉とおかよの関係に焼餅をやいた女将が亭主と一緒になっておかよを虐待する。その現場を住人達が目撃しておかよを助けようとする。そこへ捨吉がやってきて亭主を突き倒し、おかよを開放する。亭主は突き飛ばされた時に石垣に頭を強打したらしく、あっけなく死んでしまう。亭主が死んで女将は厄介払いができたと大喜びする。そして捨吉を人殺しだと叫ぶ。そこへ役人がやってくる。その役人に向かっておかよは、女将と捨吉がぐるになって亭主を殺したのだと訴える。その言葉を聞いて捨吉は愕然とする。

クレジットどおりに捨吉や女将とその妹が映画の主役だとしたら、この場面が映画の実質的なラストシーンになるところだろう。ところが映画は、この場面のあとにも30分ばかりも続く。そこにはもはや、泥棒や女将やおかよは出てこない。巡礼の旅人も去った。その後を、岡っ引きをクビになった叔父が亭主に収まり、飴売りの女がその女房になっている。そして、残された住人達はあいかわらず勝手なことをほざきながら、その日その日を暮らしている。ということは、この映画の主人公は、木賃宿に暮らす人々全体なのだ、ということを黒沢は言いたかったのだろう。

ところで、この映画の中の山田五十鈴の演技は迫力満点だ。捨吉に言い寄る時のうるんだ眼付、拒絶された時の怒りの表情、そして捨吉に亭主を殺させた時の勝ち誇ったようなすさまじい顔、どれをとっても並みの人間のよくできる演技ではない。そんな山田五十鈴の前では、さすがの三船敏郎も、芸達者な中村鴈治郎も、かたなしといったところだ。




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