壺齋散人の 映画探検
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どですかでん:黒沢明の世界



黒沢明の映画「どですかでん」は、前作「赤ひげ」の5年後に作られた。黒沢としては満を持しての作品だったろうし、また木下恵介らとともに結成した「四騎の会」の初作品という位置づけもあったが、興行的には失敗した。時代の雰囲気とマッチしていなかったというのが、主な理由だ。というのも、この映画が描いているのは、貧民窟に住む住民たちの貧しい日常であったからだ。そうした貧しい日本人というのは、10年前ならリアリティを持ち得たが、高度成長に成功した1970年(この映画が公開された年)にはアナクロニスティック以外の何ものでもなかった。だから、「どん底」に感動した日本人も、この映画には感動することができなかったのだろう。

だが、そうした時代背景との関連を離れて、今日の眼でこの映画をみたらどういうことになるだろうか。今日の眼で、というのは、時代背景にとらわれない、作品そのものに即した視点という意味だ。そういう視点でこの映画を見ると、一種のユートピア、あるいはアンチ・ユートピア映画として見えてくるのではないか。つまり貧困共同体というアンチ・ユートピアに住む、すぐれてヒューマンな人たちの織り成すユートピア物語がこの映画だ、ということになる。

舞台となるアンチ・ユートピアは東京のどこかにある貧民窟ということになっている。そのどこかとは、山本周五郎の原作では、戦後の東京の焼跡のイメージを引きずっていたはずだが、黒沢の映画では必ずしもそうした具体的なイメージは問題にならない。ただ、貧困が具象化したところ、というイメージがなりたてばよい。この映画が描き出すのは、現実に存在した貧困ではなく、理念型としての貧困のイメージなのだ。

それ故、黒沢が設定したこの映画の中の貧民窟は、戦後の焼跡という感じはしない。都市の極北としてのスラム街、あるいははきだめのイメージである。実際この映画の舞台になっているところは、東京の埋め立て地の一角にある廃棄物の集積場所なのだ。そこのゴミの山の隣りに、いくつかのバラックからなる小さな共同体が成立している。その共同体は外部との交流がほとんどない。あるとすればそれは、警察官が犯罪の匂いを嗅ぎつけて侵入してくる時くらいだ。

このアンチ・ユートピアとしての貧民窟がユートピアとなりうるのは、共同体に住む人々が奇妙な連帯感によって結びついているからだ。連帯感といっても、人々が感情的に一体化しているというわけではない。彼らの生き方に一つの共通項があるという意味だ。その共通項とは、人生に対する達観である。人生というのは、文字通り人が生きることだ。人が生きるというのは、そのことに絶対的な意義がある。人は生きているだけで尊い。そんな独特の哲学のようなもの、あるいは生活感情のようなものを、この貧民窟の住人達は共有しているのである。

したがってこの映画には主人公というものがない。共同体の成員それぞれが、それぞれの生活を展開する中で映画が進行していく。登場人物はみなユニークな人ばかりである。自分が本当に電車を運転している気になっている電車狂の少年、飲んだくれた挙句に女房を交換し合う二人の土工、ふしだらな女房が生んだ5人の子供たちに自分がお父ちゃんだと思えばいいんだといいきかかせるお人よしの男、空想の中で家の設計に夢中になっている乞食の男と、その言うことを素直に聞いている小さな息子、サラリーマンらしく毎日外部に出勤していく変った男、飲んだくれの叔父に食い物にされたあげく強姦される少女、妻の不倫を目撃して人間不信に陥った不幸な男、そして映画のなかではただ一人現実感覚を持っている物知りの老人、といった具合だ。これらの人々がそれぞれ自分なりの小さな人生を懸命に生きていく、というのがこの映画のプロフィールだ。

映画の題名になっている「どですかでん」というのは、電車の走る時の音を擬音化したものだ。電車狂の少年が、ゴミの山の間を、「どですかでん、どですかでん」と叫びながら電車を運転する真似をする。本人は、自分は本当に電車を運転しているものと思い込んでいる。だから、それを見た人は、この少年を精神薄弱者と思うかもしれないが、原作では、彼は普通の知能を持った少年ということになっている。映画では、その辺は曖昧にしてあるが、彼が心から電車にいかれていることは伝わってくる。実際、これに近い電車オタクはどこにでもいるものだし、そうした人間は、普通の人間の目には狂っているように見えるものだ。

この電車狂の少年を演じた頭師佳孝は、「赤ひげ」の中で子ネズミとよばれる泥棒小僧を演じていた。その時にはまだ10歳であどけない感じを残していたが、この映画では15歳になっていて、なかなか見事な演技をしている。

この電車狂の少年に劣らすシュールな雰囲気を漂わせているのは乞食の父子だ。この父子はいまではポンコツの廃車をねぐらにしているが、自分の家を建てることを夢見ている。そこで父親が息子に向かって、どんな家にしたらよいか、設計についてあれこれと相談する。父親の云っていることは無論埒もない事ばかりだが、子どもの方はそれを面倒くさがらずに聞いてやる。実際、この父子は子どもの方が存在感があるのだ。父親は毎日の食事を用意する才覚もなく、子どもが乞食をしてかき集めてくる食い物を食って命をつないでいる。そのうち、しめさばを食って食中毒にかかり、それがもとで子どもは死んでしまうのである。その子供が死んだ後で、父親は空想していた我が家の完成したビジョンを見る。そのあたりが何ともいじらしく描かれており、黒沢らしさを感じさせるところだ。

この二組のエピソードに並行する形で、ほかの住人達のエピソードが展開されるわけだが、考えようによっては陰惨極まりないそうしたエピソードが、映画からは必ずしもそうは伝わってこない。伝わってくるのは、自分の運命を受け入れている人々の達観のようなものだ。登場人物の中には、姪を強姦して恥じない男のような卑劣な人間も出て来るが、そんな人間でも、一抹の人間らしさを感じさせる。彼らの持つ達観のようなものが、そうさせるのだろう。

こんな訳でこの映画は、同じようなテーマを描いた「どん底」とは大分違うところがある。一番の違いは、登場人物たちの自分自身に対する姿勢の違いだろう。どん底の登場人物たちは、自分たちの現在の境遇に満足せず、そこからの脱出を目指している。それに対してこの映画の登場人物たちは、自分たちの現在の境遇に、満足しているとまでは言えないまでも、決して不満を抱いているわけではない。それが典型的に現れるのは、伴淳三郎演じる島さんが、同僚から自分の女房を批判されて逆上するシーンだ。島さんはどういうわけか女房からコケにされており、同僚の眼の前でも罵倒される。それを見た同僚が、あんな女には女房の資格はないといって批判するわけだが、島さんはそれを自分に対する侮辱として受け取るのである。つまり、世間からどう思われようとも、自分は今の境遇に不満を抱いているわけではない、というわけなのだろうが、そうした島さんの姿勢はここの住人達の誰もが備えているのである。

この映画をアンチ・ユートピアにおけるユートピア物語だと言ったことの秘密は、この島さんの姿勢のなかに込められているといえよう。




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