壺齋散人の 映画探検
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乱:黒沢明の世界



黒沢明の映画「乱」(1985年公開)は、日仏合作ということになっている。といっても、フランスの光景が出てくるわけでもないし、フランス人の俳優が出てくるわけでもない。日本を舞台に日本人の俳優たちが演じる純日本映画だ。それが何故日仏合作ということになったのか。その理由は、資金の大部分がフランスから出ているということなのだ。つまり、フランスの金を使って作られたから、生粋な日本映画ではなく、日仏共同映画になったというわけだ。

それほど、当時の日本の映画界に勢いがなかったということなのだろう。黒沢は、「影武者」の制作にあたってはアメリカ人プロデューサーから資金協力を受け、「デルス・ウザーラ」はソ連に招かれる形で作った。だから、その映画は、ソ連を美化するような一面を持っていた。とにかくそうでもしなければ映画が作れないほど、黒沢は映画人として困難な状況に面していた、ということなのだろう。

「乱」の場合には、黒沢は資金協力の見返りに余計な条件は付けられなかったらしい。「影武者」の制作に取り掛かった時には、すでに台本が出来ていたという。フランス側のプロデューサー(セルジュ・シルヴェルマン)はそれを尊重して、黒沢の作りやすいように作らせたらしい。おかげで、黒沢は壮大な規模の映画を、思う存分作ることができた。

この映画はシェイクスピアの悲劇「リア王」を下敷きにしている。黒沢は「蜘蛛巣城」でもシェイクスピア劇(マクベス)を下敷きにしたが、「蜘蛛巣城」が原作にかなり忠実なのに対して、こちらは、筋書きの大枠を採用したのみで、細部はかなり換骨奪胎している。

リア王は娘たちに裏切られる不幸な父親の物語であった。一方、「乱」の主人公たる日本の武将一文字秀虎(仲代達矢)は、息子たちに裏切られる不幸な父親である。彼は戦国時代の日本の一武将という設定だから、リア王とは違って王権の体現者ではない。地方の一豪族に過ぎない。だから、リア王以上に自分の地位には神経を配らなければならないのに、それを怠ったがゆえに、転落の道を歩むことになった。この映画は、転落の道を自らの意思で歩んでいく愚かな老人の物語ともいえる。

リア王は、三人の娘のうち自分におべっかをつかう上の二人に領土を分け与え、おべっかを使えない末娘は追放してしまう。ところが上の二人の娘が自分を裏切るのに対して、末娘は忠誠を尽くした末に死んでしまう。秀虎は、三人の息子のうち上の二人に領地を分け与え、末の息子を勘当してしまう。その後、上の二人の息子が父親を裏切り、末の息子が死んでしまうという設定は、娘を息子に切り替えただけで、ほぼパラレルな関係にしてある。

父親は三人の息子たちを前に、兄弟仲良くやっていけば怖いものはないと言って、一本の矢なら簡単に折れるが、三本重ねると折れない、というところを見せてやる。ところが、末の息子は、三本重ねても、折れることがあるといって、実際にそれを折って見せる。これは、毛利元就の故事を踏まえたものだが、三本の矢が折れないではなく、折れるというところに着目している点で、黒沢流の諧謔を感じさせる。

この映画の最大の見どころは、父親の秀虎が二人の息子たちに自分のいる城を攻められ、配下の者たちを皆殺しにされながら、炎上する天守閣に籠城するシーンだ。秀虎を守る武士たちは、優勢な敵方によって、次々と殺されていく。女たちも、はやこれまでと自害する。そんな中で秀虎はひとり頑張っている。だが、炎がいよいよ身近にせまる中で、秀虎は呆然とした表情で火の中から外へ出てくる。外には大勢の兵士たちが待ち構えているが、皆秀虎が発する妖気のようなものに呑みこまれて、手出しをする者がいない。そんな中をするりとすりぬけるようにして、秀虎は荒野に飛び出し、あてどなくさまよい始めるのだ。

その放浪の道連れになるのが道化である。リア王の道化には名前がなかったが、この道化には狂阿弥という名前がついている。演じているのは、日本の先駆的なトランスジェンダー役者として知られるピーターだ。なかなか色気がある。リア王の道化は、理屈をいうばかりで色気は感じさせないが、ピーター演じる道化には色気がある。またこの道化は、狂言の仕草を演じることで、黒沢好みの様式性も感じさせてくれる。狂阿弥は狂言的な仕草ばかりか狂言小謡も披露してくれるが、それには和泉流狂言師野村万作の指導があったという。

リア王の中の道化は、リア王が狂気に陥ると消え去ってしまう。リア王の道化は、リア王の分身みたいな位置づけで、常にリア王に反省を迫る役柄なのだが、リア王が狂気に陥って理性を失うと、反省のしがいもなくなるわけで、消えていなくなるほかはないのだ。狂阿弥の場合はそうではない。彼は最後まで秀虎に付き添うのである。

もうひとり、秀虎に付き添う役柄に平山丹後という武将がある。これは、リア王の中のグロスターに相当する役柄だと思うが、グロスターとは大分違った人物像になっている。グロスターは、劇中における重要なキャラクターであり、彼をめぐる出来事は、それだけでひとつの物語になっているほどだが、この映画の中では、マイナーな役柄に留まっている。というより、本来グロスターが演じるべき役割までをも、黒沢は秀虎に演じさせているのである。盲目のグロスターは荒野をさまよったあげく、嫡子のエドガーと出会い、エドガーに導かれて断崖から飛び降りようとするのだが、この映画で断崖から飛び降りるのは秀虎である。

その断崖にはもうひとり、盲目の若者が現れる。これには一人の姉がいて、秀虎の二男に嫁いでいるということになっている。この女性は結局、長男の嫁によって殺されてしまうのだが、この女性と彼女の弟をめぐる不幸な物語は、リア王にはない黒沢独自のアイデアで、黒沢はこれを能の「蝉丸」から得たのだと思う。若者の名前が「鶴丸」になっているところにも、そんな因縁を感じることができる。

原作のリア王にはもう一人重要なキャラクターがいる。グロスターの庶子エドマンドである。エドマンドは、庶子である自分の境遇から脱出しようとして、嫡子であるエドガーを父親に追放させ、その父親を自分が裏切る。しかして、リア王の二人の娘にそれぞれ色目を使い、二人を反目させるような真似もする。その役柄に対応するものをこの映画の中に求めるとすれば、それは長男の嫁である楓の方(原田美枝子)だろう。楓の方は、自分の親兄弟を秀虎によって殺され、その恨みを何とかして晴らしたいと常々思っている。そんな中で、夫の孝虎が次男の正虎によって殺されると、その正虎に襲い掛かって、彼を征服し、自分の意のままに動かすようになる。

楓の方が正虎に襲い掛かるシーンはすさまじい迫力だ。女が男に襲い掛かるシーンは、赤ひげの中でも出て来たが、ここでは襲い掛かるだけではなく、ねじ伏せてしまうのだ。女にねじ伏せられた男である正虎は、すっかり骨を抜かれたようになって、以後は楓の方の傀儡のような存在に堕落する。

その楓の方に正面から挑むのが、正虎の腹心鉄修理(井川比佐志)だ。鉄は楓の方の意向で、正虎の正室末の方を殺すように命じられるが、その楓の方の前に、末の方の首だと言って、風呂敷包みを差し出す。楓の方がそれを開けてみると、中から狐の頭が出てくる。怒り狂う楓の方を前に、鉄は、ここには悪い狐が取りついていて、殿を騙そうとしているとあてこする。

そこで鉄が持ち出しているのは、殺生石になった狐の伝説なのであるが、これも能を強く意識した演出だ。殺生石の狐は、唐や日本の朝廷で散々人心を惑わせた悪いつきものである。この狐の生まれ変わりを、鉄はついには殺してしまうであろう。

最後の見せ場は、三男と二男の兄弟合戦のシーンだ。三男側が待ち構える鉄砲隊の中に次男側の騎馬団が突進して行って、つぎつぎと弾にあたって倒れていく。その場面がすごい迫力だ。黒沢は「影武者」でも、大規模な騎馬団を描いたが、その際に使った馬はサラブレッドだった。ところが、戦国時代には、サラブレッドのような大きな馬は日本にはいなかった。その点を指摘された黒沢は、一回り小型の馬をわざわざアメリカから輸入して、この映画の中だけのために使ったのだという。

最後の見せ場の中では、父親を捜しに行った三男が父親を見つけ、父子が再会を喜び合っている最中に、三男は流れ弾に当たって死ぬ。この映画の流れからすれば、三男がここで死なねばならぬ必然性はないのであるが、原作では、コーディリアは死ぬことになっているので、黒沢もそれを尊重したのであろう。




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