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溝口健二「近松物語」:近松門左衛門の不義密通ものを映画化



溝口健二の映画「近松物語」は、近松門左衛門の世話浄瑠璃「大経師昔暦」を下敷きにしている。近松はこの浄瑠璃を、30年以上も前に起きた事件に取材した。それは「おさん茂兵衛」と呼ばれた不義密通事件で、男女の不幸な愛の顛末が民衆の深い同情を呼んでいた。そこで近松は、二人の三十三回忌にあわせて、この事件の顛末を世話浄瑠璃に仕立てたのである。

この事件というのは、京都の大経師以春の妻おさんが手代の茂兵衛と不義密通したというもので、丹後の国に逃げたところを捉えられて、二人の間をとりなした下女のお玉ともども、洛中引き回しの上、粟田口で処刑されたというものである。徳川時代には、不義密通はもっとも重い犯罪であり、露見すれば死罪を免れず、本人たちはもとより、その間を取り持っただけの人間まで処刑されたわけである。

この事件を文芸作品に取り入れたのは、西鶴が最初だった。西鶴はこの事件の二年後に、好色五人女の話の一つとして、この事件を書いた。西鶴は例によって、おさん茂兵衛の恋も、好色な男女の間の色恋沙汰として描いている。したがって不幸な男女への同情といったものはない。二人の死は自業自得のこととして、突き放した視点から見られているのである。

これに対して近松は、二人は好色な気持ちから密通をしたのではなく、運命のいたずらに翻弄された不幸なカップルとして描き出している。西鶴におけるように、二人は互いに愛し合っているわけではなく、たまたま不義密通という、たいへんな事態に落ちこんでしまった、運の悪いカップルなのだ。

近松の浄瑠璃の筋書きは、次のようなものである。大経師以春の妻おさんは、実家から金を無心されるが、夫の以春に遠慮して、手代の茂兵衛に相談する。茂兵衛は主人の印鑑を借り出して、それで金を借用しようとするが、主人に見破られて、問い詰められる。するとそこに下女のお玉が出てきて、そのお金は私から頼んだのですといって、なんとかとりなそうとする。おさんは後で、お玉に礼をいうが、思いがけないことを聞かされる。意俊が毎晩のように寝室にやってきて困っているというのだ。そこでおさんは、自分がお玉の替え玉となって、忍び込んできた意俊を懲らしめようとする。

一方、茂兵衛のほうは監禁されていたところを抜け出してお玉の部屋にやって来る。昼間にお玉が自分をかばってくれたことに対して、礼をいうつもりだったのである。ところがお玉の部屋には思いかけずおさんがいた。そこへ以春がやってきて、二人は不義密通をしていたことにされてしまうのである。

二人は何とか逃亡して丹後まで逃げていくが、大経師の家に出入りしていた百姓に見とがめられて、ついに捕まってしまう。一方お玉の方は、二人をどん底に突き落とした責任の一端を感じて、みずから進んで叔父に切られて死ぬのである。

近松のこの筋書きを、溝口はおおむねの所採用している。しかし、決定的に異なる部分がある。それは、おさんと茂兵衛は、単に不義密通をしたのではなく、深く愛し合ったというふうに作り替えた点である。それ故、この映画は、不幸な男女の悲恋物語としての性格を持つに至った。悲恋でも特別の悲恋、誰もが胸を塞がれるような、とびきりの悲恋物語になっている。

映画は、大経師の家の前を、市中引き回しの行列が通り過ぎていくシーンから始まる。馬上には縄で結ばれ合った男女が乗り、高札には、この者どもは不義密通をした咎で、磔に処せられる旨が書いてある。やがて二人は並んで十字架に磔になる。その光景が、おさんと茂兵衛の運命を暗示しているわけである。

前半はほぼ、近松の筋書き通りに進んでいく。おさんを演じるのは香川京子、茂兵衛は長谷川一夫、お玉は南田洋子、以春は進藤栄太郎である。

前半では、おさん茂兵衛は互いに愛しあっているようには見えない。二人は主人の妻と手代の関係であり、茂兵衛はおさんをお家さまと呼び、おさんは茂兵衛を呼び捨てにする。

二人の関係が劇的に変化するのは、琵琶湖での心中未遂の場面からである。世をはかなんだおさんは死ぬ決意をし、それに茂兵衛もお供することとして、二人で船に乗って琵琶湖に身を投げようとする。その時に、茂兵衛が思わぬ告白をする。以前からおさんを慕っていたというのだ。それを聞いたおさんは、俄然態度を変え、こう言い放つ。「おまえの今の一言で、死ねんようになった、死ぬのはいやや、生きていたい」

おさんのこの言葉が、この映画の全体を語っているといってもよい。この言葉によって、二人は恋人同士として、本当に結ばれるのである。そして結ばれた二人は、なるべく長く生き続けようとし、生きている限りは愛しあおうと決意するのである。

しかし、二人には、あまり残された時間はなかった。丹後の山中に潜んでいたところを捕まえられ、いったんは引き離されてしまう。この時点では、以春は事件を公にするつもりがなく、闇に葬るつもりだった。二人を引き離しておさんを連れ帰れば、なんとか表沙汰にならずにすむだろうと考えていたわけである。また、おさんのほうも、ここで茂兵衛をあきらめていれば、あるいは死なずにすんだかもしれない。

しかし、おさんには茂兵衛と別れることはできなかった。以春から実家に預けられ、思案しているところに、これも父親の愛によって助けられた茂兵衛がやって来る。おさんの母親(浪花千栄子)は、おさんの思いを遂げさせようとするが、おさんの兄が後難を畏れて、密告する。こうして捉えられた二人は、市中引き回しになって、処刑場へと向かっていくのである。

このように溝口は、おさん茂兵衛の物語を、たんなる好色や不運な巡り合わせということにとどめるのではなく、悲恋物語として描いた。そして、男女の純粋な愛が、様々な封建的束縛によって押しつぶされていく過程を、怒りをこめて描いた、といえるのではないか。西鶴一代女のなかでは、身分不相応の恋をした男(三船敏郎)が、愛し合うことの何処が悪いのかと叫んだわけだが、この映画の中でも、その叫びと同じものが響き渡っている。おさんが、「茂兵衛、茂兵衛」と絶叫する声が、その響きを象徴しているのではないか。

溝口の他の作品と同様、この映画の中でも、極悪人といってよいような男たちが多数出てくる。以春も悪党として描かれているが、それはまだ生ぬるい悪党で、モットひどい奴らが沢山出てくる。なかでもひどいのは、おさんの兄だ。この兄(田中春男)は、妹に金の無心をし、その金で放蕩放題をする一方、おさんと茂兵衛が自分にとって危険と察すると、さっさと密告して、二人をどん底に突き落とすような真似をするのである。こうした悪漢は、これまでの溝口映画には常に出てくるキャラクターなのだが、こんなに悪どいキャラクターは前後に見当たらぬほどだ。

その一方、おさんと茂兵衛の純真な心が観客の胸を打つ。香川京子は気品を漂わせながら愛に生きる女を演じ、長谷川一夫は最高の二枚目ぶりを発揮していた。溝口の映画では、二枚目というのはとかく情けない男として描かれるのが通例であるのだが、長谷川一夫演じる茂兵衛は、二枚目でありながら、芯のしっかりした男らしい男として描かれている。これは、長谷川一夫という俳優の雰囲気がそうさせた面もあるのだろう。

こんなわけで、溝口晩年の名声高き四部作のうち、この映画は独特の輝きを放っている。最後の場面で、馬上の二人が、互いに手を結び合い、見つめ合いながら、幸せそうな表情をする。その表情が、見ている者の心まで洗い清めてくれる。そんなところが、筆者にはたまらない魅力として映るのだ。



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