壺齋散人の 映画探検
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祇園囃子:溝口健二の世界



溝口健二が戦後作った映画「祇園囃子」は、戦前の名作「祇園の姉妹」と色々な面で共通点がある。題名にもあるとおり京都の祇園を舞台にしていること、姉妹関係にある二人の芸妓の生き様を描いていること、彼女らを囲む人間関係が封建的なしがらみに縛られていること、などだ。無論異なるところもある。一番大きな違いは、「祇園の姉妹」の「おもちゃ」が、男に踏みつけにされながらも、それを跳ね返して強く生きようとする気概をみなぎらせているのに対して、「祇園囃子」の美代栄(若尾文子)は、封建的なしがらみに反発しながらも、結局はそれに屈服してしまうという点だ。封建的なしがらみに反発しながら、結局は屈服する点では美代栄の姉格の美代春(小暮美千代)も同じだ。彼女もがんじがらめなしがらみを振りほどこうとして、結局はまかれてしまうということになっている。その点は、「おもちゃ」の姉が、はじめからしがらみに捉われて、それを疑わずにいたのとは大きな違いと言える。

見ていて面白いと思ったのは、美代栄に封建制度への反抗心を吹き込んだのが、祇園の舞妓たちを鍛える立場の芸の師匠だということだ。彼女は、おそらく客から吹き込まれた権利意識を、教え子の舞妓たちにも吹き込む。その一人である美代栄は、憲法の基本的人権の規定などを持ち出して、いやなことはいたしません、などとえらそうな口を利くようになる。こんな小生意気な口は、それまでの溝口映画に出てくる女は吐かなかったものだ。彼女らはただただ意地を以て反発するだけで、それを理屈で合理化しようなどとは、思いもよらなかったのである。

溝口がこの映画を作ったのは昭和28年のこと、敗戦国だった日本が、サンフランシスコ講和条約を結んで、独立国家として、また民主主義国家として、新たな道を歩み出そうとしていた時期である。この頃の溝口は、「西鶴一代女」から「近松物語」に至る、古典に題材をとった一連のすぐれた作品を作っていたが、「祇園囃子」は、その合間を縫って、いわば息抜きのような形で作ったものと言える。息抜きであるから、戦前の映画におけるような強烈な批判意識や、古典物におけるような様式美の追求といった堅苦しいところは陰を潜めている。そのかわりに表面に出ているのは、遊び感覚ともいうべきものだ。この映画は、祇園を舞台として、日本的な遊びの面白さを十分に楽しめるように作られているのである。そのあたりを映画評論家の佐藤忠男は、ある種の堕落のように言って、この映画をあまり評価していないのだが、筆者の見るところ、これはこれで、なかなか優れた映画というべきである。

祇園の町が情緒豊かに映されている。そんな映像だけでも見る価値がある。それを見ると、古きよき時代の日本がどんなたたずまいであったかわかるような気がするし、今でも京都の祇園地区に残っている風景の幾分かは、この映画の時代とあまり違っていないことに気づかされる。

その祇園の、おそらく石塀横丁と言われるあたりがこの映画の舞台である。その一角にある置屋に、一人の少女が尋ねてくる。どこにも行くところがないから、ここに置いてもらって、舞妓になりたいと言うのだ。置屋の姉さんは、保証人がなければだめだと言うが、父親も含めて誰も保証人になってくれない。そこで少女の窮状を見かねた姉さんが、少女を自分の妹分にして、面倒を見てやることにする。こうやって、一人の少女(16歳ということになっている)が、一人前の舞妓に成長してゆく過程が、それこそ情緒たっぷりに描かれていく。そのあたりを見ていると、溝口がこの映画に込めた最大の目的は、祇園のよきところを、映像の形で長く保存しておくところにあったのではないかと、思われるほどだ。それほど溝口は、祇園それ自体にこだわっていると言える。

芸妓といえば、売春がつきものだ。ソフィスティケートされてはいても、遊女の行き着く先は、男の慰み者になることだ。芸妓の場合には旦那を取るというかたちで、特定の男に受け出されてその妾になることが、芸者人生の上がりということになっている。この映画の中でも、芸妓が旦那をとることは当然とされている。だが、その旦那が自分の気に入る男であればよいが、そうでなければ、いやいやながら妾になることになる。それを美代栄は受け入れることができない。また、いつも間にか美代栄を本当の妹のように思うようになった美代春も、それを強制することにためらいを感じる。しかし、そのためらいを義理のしがらみが締め付けにかかる。

美代春は、茶屋の女将(浪花千栄子)から借金をしているのだが、女将はその借金のかたに、美代春と美代栄に男の言うままになれと迫る。ところが二人ともそれを拒絶する。そこで女将は大いに怒り、美代春に陰湿な仕打ちをする。おかげで美代春は祇園から締め出される格好になり、窮地に陥る。このままでは、祇園では生きていけないと悟ったところで、美代春は女将の要望を容れて、男に抱かれる決心をするのである。その男と言うのが、役所の課長ということになっているのが面白い。この男はある業者接待の座敷で美代春に惚れこんでしまい、美代春を賄賂として要求したのだ。女が賄賂の代物になると言うところが、いかにも溝口らしい発想だ。

美代春が体を売る決心をしたきっかけに、女将の言った言葉がある。嫌な男に抱かれるのはいやだと言う美代春に向かって、女将はこういうのだ、「金もないくせに、そんな生意気なこと言いおすな」

美代春は、妹分の美代栄が、嫌な男に抱かれるのはいやだということには反発しない。あなたの好きなようにしなさい、と至って理解があるのである。もっとも理解するだけでは、世の中がうまく運ぶとは言えないのだが。ともあれ、そんなこともあって、この映画の中の小暮美千代は、珍しくしおらしい女に見えるから面白い。





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