壺齋散人の 映画探検 |
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溝口健二は、戦中から戦後にかけてつまらぬ映画を何本も作ったが、「お遊さま」もそうした駄作の一つである。にもかかわらず筆者がここに取り上げるのは、これが谷崎の小説を映画化したものだからである。谷崎の原作「芦刈」の、あの独特の世界を溝口がどう映画化したか、そしてどのような理由で失敗したか、それに興味があった。 原作の「芦刈」には、大まかに言って二つの眼目がある。一つは、谷崎と思しき老人が能「芦刈」の舞台である淀川の溜りで幽霊と出会い、その幽霊から昔語りを聞かされるという点、もう一つは、その幽霊の語る話と言うのが、男の口を通しての女人礼賛になっているという点である。この小説の最も大きな特徴は、男の目から見た女の美しさ・素晴らしさを、それこそ極楽の蓮華を見たように語る所にある。その女人礼賛が、谷崎一流の粘っこい文体に乗って、聞くものをして恍惚とさせるわけである。 ところが溝口は、原作の眼目を二つとも無視した。この映画には幽霊などは出てこず、従って幽霊の語る怪しげな物語ではなく、現実の出来事として描かれている。その点で、原作の持つ幽玄の趣きを甚だしく軽視している結果になっている。また、男の目からではなく、女の視線に寄り添って映画が作られている。その結果、映画の中の女は、男が礼賛する対象ではなく、自分で自分の美を誇る自立した女となってしまっている。自分で自分の美を誇るというのは、ある種の矛盾であるから、その点で、この映画は破綻せざるを得ない宿命を負っているわけである。 溝口が、女に寄り添いながら、女の視点から映画作りをしたということはよく知られている。それはそれで、素晴らしい方法と言える。だが、そうした方法は、「芦刈」のような小説の世界には、あまり、というか全く、相応しくない。 こうした欠陥は、原作を考慮に入れるから一層目につくわけで、そうした事情を無視して一個の独立した映画作品として見たらどう映るか。そのように見た場合でも、これが著しく女の視点に支配されているということは否めない。二人の姉妹のうち姉に惚れこんだ男が、姉とは結婚できないまでも、親族の立場から親しく往来できることを期待して妹と結婚するという筋書きは、男の立場に立てば不自然ではないが(事実原作では全く不自然に感じられない)、女の立場からすると、つまり女のほうから望んでそうしたということになると、極めて不自然に映る。やはり谷崎の原作のような不道徳な作品は、女の視点から描くには相応しくないと言うべきである。女を不道徳な存在として描くのは、溝口の本意でもなかろう。 こうした事情を抜きにして、細かいところには、それなりに見どころがある。お遊を演じた田中絹代は、彼女の持っている美しさがもっともよく出ているのではないか。乙羽信子には気の毒だが、二人が並ぶと、田中の美しさが引き立ち、乙羽のほうは、添え物のように見える。これでは男がこちらの方に心を奪われるのも無理はない、と思わせるくらいだ。田中は小柄な女性だったそうだが(身長が150センチちょっと)、全体が小作りで、しかも顔が細面にできていたので、あまり小さく見えない。一方乙羽のほうは、背丈が高い上に顔の幅も広いので、田中とふたり並ぶと、大女に見える。少なくとも美人には見えない。乙羽にとっては実際気の毒千万というほかはない(筆者は乙羽ファンだったのでなおさら)。 映画の中で、姉妹が男を含めて三人で謡曲を歌う場面が出てくる。「君なくてあしかりけりと思ふにもいとど難波のうらはすみうき」という、能「芦刈」の一節である。ところがこれに伴奏しているのが、能の囃方ではなく、雅楽というのが溝口らしい。どういうつもりでこのような演出をしたのか。まさか、能と雅楽の区別がつかなかったわけでもあるまい。 映画のラストに近い部分がダラけているのも気になる。クライマックスに向って盛り上がって行くと言うよりも、ダラダラと続きながら(内容は女の世帯やつれだ)、なんとなく終わる、そんな感じだ。これは、女の立場を重んじすぎるからである。女の生き方を強調したい気持ちはわからぬではないが、そのあまり女人礼賛というテーマがボヤけてしまうのでは、何のためにこの映画を作ったのかもわからなくなろうというものだ。 |
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