壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画ブレイク詩集西洋哲学 プロフィール掲示板



溝口健二「滝の白糸」:泉鏡花の小説を新派風に演出



溝口健二はサイレント時代に大家としての風格を示した。彼のサイレント映画は新派狂言を映画化したものが殆どだ。それらは彼の属していた日活向島撮影所のカラーを反映していた面もあったようだ。残念なことにそれらの殆どは失われてしまったが、「滝の白糸」については、現存する痛んだフィルムをもとに編集されたデジタル・リマスター版を見ることができる。これは「カチューシャ」のメロディをバックに、字幕と弁士による読み上げをともなったもので、わかりやすい。

原作は泉鏡花の小説をもとにした新派劇。これは女の意地をテーマにしたもので、惚れた男のために自分の生涯を犠牲にした女が、その男のために殺人を犯した挙句、検事に出世した男によって裁かれながらも、男の出世した姿を喜びながら自殺するという筋書きなのだが、それが日本人の心に訴えかけるものがあって、何度も映画化されたほか、舞台やテレビドラマにも取り上げられた。

滝の白糸というのは、女芸人の芸名である。この女芸人は、水芸と言って、水を使った手品芸のようなものを興行しており、一座を引き連れて北陸道を渡り歩いている。その途中で知り合った一人の男、この男は乗合馬車の御者なのだが、なかなか男前ということもあって、女は一目惚れしてしまうのだ。その一目惚れした男と、たまたま金沢の橋の上で深夜に再会した女は、是非もなく男に入れ込んでしまう。その挙句、男が金に窮して勉学をあきらめねばならぬと聞き、自分がお前の後ろ盾になってやろうと申し出る。その時の女の言い分が面白い。「あたしが貢いであげようじゃありませんか」と言うのである。男が、何故、と聞くと、「お前さんに可愛がってもらいたいのさ」と女は答え、こうして二人は結ばれるわけなのである。こんな男女の結びつきは、今の日本ではなかなかない。だが明治・大正の頃まではあったのだろう。でなければこの映画が、長く日本人に愛されてきた理由が説明できない。

女は男の出世を唯一の希望にして生きてゆく。その女(滝の白糸=入江たか子)が一座を率いて旅回りをするシーンがなかなか見せる。昔の芸人の世界では、男も女も平等のようだ。才覚のあるものが上に立って人を率い、皆を食わせるのだ。だが芸人稼業は厳しい。とくに水芸の場合には、冬はなかなか興業が成立しない。そんなこともあって、滝の白糸は経済的に追い詰められてゆき、男への仕送りもできなくなる。そんな状況に直面して、女は高利貸しに体を売って金を工面する。ところが恥をしのんで得た金を、ならずものに奪われてしまう。それを高利貸しの仕組んだ罠だと思い込んだ女は、高利貸しのもとへ文句を言いにゆくが、帰って再度姦淫されようとするところを、誤って殺してしまう。

こうして殺人犯の嫌疑を受けた女は、法の裁きの前に引き立てられる。その裁きを担当する検事の一人に、自分の愛する男がいたのだ。官憲は当初、高利貸し殺害の犯人は他の男(白糸を襲った芸人)だと疑い、白糸には重大な嫌疑をかけてはいなかったのだが、白糸の愛する男(岡田時彦)は、白糸が自分のために殺人を犯したということを確信する。そしてその確信に立って、白糸を尋問する。その尋問の場面がまた興味深い。検事は理屈や証拠にもとづいて白糸を追及するのではなく、彼女の情に訴えて、自分の罪を告白せよと迫るのだ。

このあたりは、いかにも情緒的で、今の時代の司法感覚からは隔絶しているように思えるのだが、泉鏡花にとっては、これが人間自然の情に従った正しい行いというふうに映ったのだろう。その証拠に白糸は、自分への嫌疑がさしせまっていないことをわかっていながら、男の情にほだされて正直に白状してしまい、その場で舌を噛み切って死んでしまうのである。彼女を死なしめた男のほうも、自分のしたことに責任を感じ、拳銃で自殺してしまうのだ。

なんとも救いのない話というべきだが、新派劇と言うのはだいたい、こうした救いのない話を好んで取り上げたものなのである。ともあれ、溝口と言えば、男によって食い物にされる女たちの意地を描き続けたという印象が強いので、この映画のように、自ら進んで男のために身を犠牲にするというのは、やや意外な印象を与える。だが女の立場から世の中を見るという溝口の基本的な視点は、この映画のなかでもすでに貫かれている。溝口はやはり、女に拘った映画を作り続けた作家だったと言えるのである。

白糸を演じた入江たか子が、なかなかすごい印象を与える。第一、非常に美しい。高峰秀子は入江たか子を戦前の日本映画を代表する美人女優として称揚したが、実際その言葉に偽りはないと思わされるほど、この映画の中の入江たか子は美しく見える。その美しさは、彼女の外見からだけではなく、彼女の内心からもにじみ出てくるように感じられる。風格があるのだ。芸人を演じながら、人間としての矜持を感じさせる。

なお、この映画は、入江たか子のプロダクション製作というクレジットがついている。この時代には、片岡千恵蔵や嵐寛寿郎などが、大手映画会社から独立してプロダクションを作る動きが広まっていたが、女優が独立プロを作ったのは入江が初めてだったらしい。その入江のために溝口が、どんな事情で一肌脱いだのかはわからないが、どうも溝口はこの時に入江の風下に入ったことを男の恥だと思ったらしく、その後入江に対して意趣返しのような意地悪をしたという臆説が流されている。本当のところはわからない。



HOME日本映画溝口健二次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである