壺齋散人の 映画探検
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めし:成瀬巳喜男の世界



成瀬巳喜男は日本の映画史上、溝口健二、小津安二郎、黒沢明とならんで四大監督などと呼ばれ、世界的な評価を受けている。だが、他の三人とはちょっと異なったところがある。他の三人がそれぞれ強烈な問題意識というか、生涯をかけたテーマのようなものを持っていたのに対して、成瀬の場合にはそうしたところが希薄である。彼は、溝口のように社会の矛盾に対して批判的な目を向けるわけでもなく、小津のように家族関係の変化を歴史の必然として眺めるでもなく、また黒沢のように人間の内面に目を凝らすというのでもなかった。彼が映像を通じて描いたのは、同時代のごく平凡な男女のごくごく平凡な日常生活なのであり、そこにはイデオロギーとかヒューマニズムとかいった、大袈裟な気負いはいささかもない。しかし、そんなところがかえって、映画作家としての成瀬巳喜男の独自性というものにつながったのではないか。そんな風に思わせる不思議な作家なのだ。

成瀬の映画監督としての名声は、戦前にもある程度確立されていたが、決定的に作用したのは1950年代に作った、「浮雲」を頂点とする一連の作品群である。「めし」はその作品群の嚆矢をなすものであり、平凡な人間たちの平凡な日常生活を淡々と描き出すという成瀬の手法が、心憎いまでに発揮されている作品である。

映画の筋は林芙美子の同名の小説から借りているが、筋そのものは面白くもなんともない。要するにドラマチックな展開をもっていないのだ。結婚後数年していわゆる倦怠期を迎えた夫婦が、ちょっとしたことで離婚の危機を迎える。しかしその危機に対して、夫も妻も正面から向き合おうとしないうちに、なんとなく危機は回避され、夫婦はもとの鞘に収まる、といったつまらない話である。そのつまらない話を、どうしたら映画として面白いものにできるのか。そこに成瀬の映画作りの秘密を伺うことが出来る。

つまらないものを面白くしようというのはなかなか難しいことだ。一筋縄ではいかない。いろいろな工夫を凝らす必要がある。それは心理描写であったり、登場人物たちのパフォーマンスであったり、思わず笑いを誘うようなユーモアであったり、あるいは時代背景の描写であったりするだろう。成瀬の場合にも、こうした色々な要素を映画の中で適度にミックスして使うことで、映画に色気のようなものを付与しようとしている。そのちょっとした色気が、観客をして何ともいえない気分にさせるだろう。

舞台背景は戦後しばらくたった大阪の街。北浜の株屋に勤める夫(上原謙)と妻(原節子)が、小さな一軒家に暮らしているが、結婚後5年たっていわゆる倦怠期を迎えている。夫婦関係への不満は妻の方が強い。妻は退屈な日常生活にあきあきして、こんな暮しはもうたくさんだと思い始めているのだ。そこへ夫の姪(嶋崎雪子)が家出をしたといって転がり込んでくる。そうしてこの二人の単調な生活に波風を立てるようなことをする。日頃無口で感情をあらわにしない夫も、姪を前にして鼻の下を長くしたりする。そんな夫を見ると妻はいよいよ忌まわしい気分になって、ついに家を飛び出して実家に帰ってしまう。実家のあるところは川崎の南武線沿線の矢向というところだ。戦後の焼跡だったところにようやく家が建ち始め、復興の兆しが見えてきたという設定だ。妻はもう夫の元へは帰らないつもりで、職を探したりもするが、なかなか思うようには進まない。一方母親は娘に向かって早く夫のもとに帰るようにと急き立てる。そんなこんなでぐずぐずしているうちに、ふと夫が実家にやって来る。迎えに来たわけだろう。妻は深く考えることなく、夫のもとに帰ることにする。

以上が映画の筋だが、一読して察せられるとおり、ほとんどドラマチィックなところはない。夫と姪の関係は男女の関係になるわけではなし、また妻の従兄が出てきて色々とモーションをかけてくるが、妻の方では応えない。姪の行動も、いろいろと波風を立てはするが深刻な状態に発展するわけでもない。ないないづくしで面白いわけがないのだが、それでも映画としては面白いところがある。というわけなのだ。

その面白さを構成している要素をいくつか抜き出してみよう。

一つ目は心理描写。上原謙は、妻に対しても世間に対しても能面のような表情を見せて感情を表に出すことがないのだが、姪と一緒にいる時だけは、楽しそうな表情を見せる。それが妻には忌々しい。自分にはそんな表情を見せたことなどまったくないのに、というわけだ。だが、妻がいよいよ家を出る段になると夫は、母親に捨てられようとしている少年のような頼りない表情を見せる。また、妻を迎えに行くシーンでは、いままで何事もなかったかのように振る舞い、ごく自然なことのようにして、二人で大阪に戻っていく。夫のそうした一連の行為が、全身の身体運動ではなく、顔の表情によって演出されている。だからこれはある種の仮面劇といってもよいくらいだ。原節子の見せる表情も、場面場面によって実に多彩だ。彼女は女だから、表情のニュアンスは主として笑顔によって演出される。笑い方の相違が、心の内面を表現しているのである。笑いの不在は心の中の混乱を顕現するといった具合に。

二つ目は時代背景へのまなざし。終戦後まだいくらも経っていないはずだが、町の復興はめざましい。大阪の繁華街には、例の食い倒れの人形が出てきて、人々の旺盛な食欲を掻き立てている。しかし一方で人々はまだ貧しい生活をしている。この夫婦も、贅沢などもってのほか、盗まれた靴を買い直すこともままならないほど、その日の生活に追われている。そういうところは、国民みんながまだ貧しかったのだということを感じさせてくれる。象徴的なのは、妻が川崎で級友に出会うところだ。その旧友は夫の帰り(復員)を待ちわびているが、もう帰ってこないだろうと半ばあきらめている。彼女の心配は、子どもをどうやって育てていくかということだ。子持ちの女には働き口などないのだ。そんな旧友の窮状をみても、自分には何もできることがない。結局その旧友は、子どもを連れながら新聞売りをするようになるのだが、それを遠目にみた原節子は、なにか見てはいけないものを見たような感じがして、その場から逃げるように去っていくのだ。このへんは、弱者に対する成瀬なりの視線を感じさせるところだ。

三つ目はパフォーマンスの活用。人間の様式的なパフォーマンスは演劇にはつきものだが、成瀬もそうしたパフォーマンスを意識的に活用している。たとえばちんどん屋だ。この映画の中では、男女二人組のちんどん屋が出て来るが、それを見た原節子の旧友が、あれは夫婦に違いないという。何故かと言えば、歩き方が同じだからなのだそうだ。似たもの夫婦というように、夫婦というものは挙動まで似て来るものなのだ、ということがここでは言われているのだろうが、それはひるがえって、上原と原の夫婦関係を照らし出す鏡の役割をも果しているわけである。

四つ目は笑いの要素の活用。笑いというものは、演劇には不可欠のもので、悲劇でさえも、笑いのないものは深みを欠く。笑いとは軽さではなく重さにつながるものでもあるのだ。この映画の中では、大泉滉演じる青年が笑いの要素を体現している。この瘋癲のような男は姪の娘に懸想するのだが、その求愛ぶりが何ともユーモラスかつ人間的で、観客は笑いの向うに人間的な暖かさを感じるのだ。

このほか、原節子が両手を使って洗濯するところ(昔の家事が大変だったことを思い出させる)とか、お転婆な娘に手を焼いた父親が、お前のことは理解できないなどといって情けない表情を見せるところとか、その姪の自分勝手な行為を、実家の兄が非難するところで、その非難は実は自分にも向けられていると原節子に感じさせたりもする、という具合に色々な場面で心憎い演出が施されている。

こんなわけで、この映画には、実にいろいろの仕掛けが込められている。そうした仕掛けが交互に作用することを通じて、作品全体に重層的なイメージが漂うようになる。そんなふうに言えるのではないか。




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