壺齋散人の 映画探検
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山の音:成瀬巳喜男の世界



成瀬巳喜男の映画「山の音」は、川端康成の同名の小説を映画化したものである。「雪国」と並んで川端の代表作とされるこの作品は、「雪国」とは違った意味で川端らしさが溢れた小説であるが、その川端らしさが、成瀬らしさとは衝突するところがあったらしく、成瀬はこれを自分の好みに合わせて大きく作り変えている。

まず、川端の小説は初老の男緒方信吾の視線を通じて、まわりの世界を描き出すような方法を取っている。主人公は男であるから、小説で描かれているのは男の視線から見た世界である。それもかなり一方的な視線である。信吾の目に映った嫁の菊子、その嫁である妻を苦しめる身勝手な長男、そして亭主に愛想を尽かして出戻りして来る長女、能天気な老妻など、家族のみんなが家長である男の視線から描かれている。男自身にも不道徳なところがあるが、家族のメンバーはそれ以上に不道徳で、男はそんな家族に対して両義的な感情を抱いている、といった具合だ。

もっぱら女の立場に立って、女の視線から映画作りをしてきた成瀬としては、このように、男の視線から世界を眺めるといったやり方は、自分の趣味にあっていない、と考えたに違いない。そこで成瀬は、主人公の男を物語の絶対的な語り手としてではなく、物語の登場人物のひとりとして相対化させた。そのかわりに女たちの比重を重くした。この映画の中の女たちは、語り手の視線の先にある、ただ見られるだけの受け身な存在ではなく、自分の目で世の中を見、かつ自己主張する存在である。老妻も、長女も絶えず家長を批判し続けるし、彼の周囲の人物たち、部屋付きの秘書や長男の浮気相手なども、ずけずけと物を言う。主人公の男は、そうした女たちの言葉にたじろぐことが多い、聊か軽い人間として、描きなおされている。

一人だけ受け身に描かれているのは、長男の妻の菊子(原節子)である。主人公の信吾(山村聡)は、長男の修一(上原謙)が浮気をして妻を苦しめていることに負い目を感じ、ことさらにやさしく接しているのだが、その優しさがいつしかエロティックな感情に変っていく、そんな過程を成瀬は描きたかったのだろう。この映画の中では、信吾と菊子は、庇護するものと庇護を求めるものの関係にある男女として描かれている。

ほかにも原作の筋を大きく逸脱するところがある。もっとも大きな変更は、菊子が離婚を決意するところである。原作では、菊子は夫への反抗として、妊娠した子を堕胎するのであるが、その後は何ごともなかったかのように、それまでの暮しを続けていく。つまり、彼女は主体性のない女なのだ。その主体性のなさが、夫や義父の背徳ぶりを一層浮かび上がらせる。ところが映画では、菊子に離婚を決意させることで、彼女の主体性を強調している。成瀬にとって女は、男の付属物としてただただ忍従すべき存在ではなく、弱いながらも自己主張する存在であるべきなのだ。

長女の描き方にも工夫がある。原作では夫に愛想をつかして飛び出してきたことになっている。その夫は小説の中では一度も登場せず、最後に近いところで浮気相手の女と心中をすることになっている。ところが映画では、夫の相原は心中をするどころか、浮気をしていることにもなっていない。そればかりか映画の中にも登場して、妻の身勝手さを批判してもいる。こうさせることで、長女で妻の房子(中北千枝子)にも、破綻の原因があるのだということを仄めかしている。

修一の浮気相手と、その女と共に暮らしている女は、原作の中でもかなり主体性を感じさせたところだが、彼女らは映画の中でも積極的に生きる女として描かれている。原作では、女の妊娠を知った信吾が堕胎をせまりに押しかけていくのであるが、映画の中では、信吾が女と会って初めてそのことを知らされるというように変っている。映画には、老いらくの恋を描くという側面もあるから、その恋の主人公があまりに背徳的であっては話にならないと思って、こんな作り変えをしたのだろう。

一方息子の修一のほうは、最初から最後まで背徳的な、どうしようもない男として描かれている。この男は妻が自分の妊娠させた子供を堕胎するに際しても何ら人間らしい対応ができないし、また浮気相手の女が妊娠した時は、堕胎を迫って暴力を働くようなこともする。女が堕胎を拒否すると、女の腹を蹴って腹の中の子供を殺そうとまでする卑劣な男なのである。

映画の舞台は、家のある鎌倉とオフィスのある東京とを行ったり来たりする。信吾と修一は同じオフィス(銀行)に勤めているので、通勤を共にすることが多い。父子は家の中ではあまり会話をしないらしいが、その分を通勤の電車の中で補っているようだ。列車の窓からは横須賀線沿線の風景が見える。戸塚あたりと思われるところもまだ田園の面影が強く残っている。

東京の街ものんびりしたたたずまいに映し出される。信吾がある喫茶店で修一の浮気相手の同居者とあうシーンがあるが、そこに門付芸人が出てくる。そんなシーンは原作にはないから、成瀬が趣味で差し込んだのだろう。成瀬には、こうした歴史風俗を感じさせるちょっとした一齣(たとえばちんどん屋)を差し込むのを好むところがあって、彼の映画のひとつの取り柄になっている。この映画ではまた、能面が効果的に使われているが、それは原作にも出てくる。川端の趣味の反映とみてよい。映画の中では、菊児童の面を様々な角度に動かして、面の表情が微妙に変化する様子を映し出していた。

ラストシーンの映像が美しい。背景の場所は絵画館前の大通り(原作では新宿御苑)。冬を迎えて葉を落し尽くした銀杏並木で、信吾と菊子があう。菊子は休養のために実家に戻っていて、その実家から信吾の会社に電話をかけてきて、会って話がしたいと申しいれてきたのだった。その話の内容は、信吾には推測できた。果してその推測通りに、菊子は修一と離婚する気持を信吾に伝える。原作では、ふたりはここで落ち合って一緒に鎌倉の家に帰り、その後は何ごともなかったかのように、これまでの生活が繰り返されることになっているのだが、成瀬はあえて、離婚させることにしたわけである。そうでもしなければ、菊子にはあまりにも主体性が感じられず、ただの木偶の棒の女になりさがるではないか。成瀬はそう思って、作り変えたのだろうと思う。

だが、この映画に出てくる原節子の表情を見ている限りでは、彼女が意思の強い主体性のある人間のようには、なかなか見えない。だが、それでもいいではないか。女は肝心なときに自分に忠実であれば、その他の部分では自分を殺しても浮かばれるものだ。

これは、女をこよなく愛した成瀬にして、達しえた境地なのかもしれない。




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