壺齋散人の 映画探検
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流れる:成瀬巳喜男の世界



成瀬巳喜男の映画「流れる」は芸者置屋を舞台にして、芸者たちの日々を淡々と描いた作品だ。芸者と言えば一見華やかに見えるが、それは個々の芸妓の上っ面のこと。置屋の運営はそんなに生易しいものではない。この映画を見ると、芸者稼業もなかなか厳しいとつくづく感じさせるが、それ以上に、女が女だけで生きていくのはもっと厳しい。そんなことを感じさせる映画だ。女を描くことにこだわった成瀬巳喜男の作品の中でも、ある意味で最も成瀬らしいこだわりを感じさせる。

原作は幸田文の同名の小説だ。筆者はこの小説を読んだことはないが、なんでも幸田文の実体験を踏まえた作品だという。幸田自ら芸者置屋に住み込みの奉公をしたことがあり、その折の見聞を小説にしたらしい。であるから、小説は芸者置屋で働く女中の視点で芸者の世界を見るというふうに書かれているようだが、映画もそれを踏襲しているように見える。芝居がかった物語が展開されていくというよりは、じっくりした視点から芸者たちの生き様が描きだされる、といったふうなのだ。

クレジット上では田中絹代が主役となっているが、それは原作者の幸田文に敬意を表したのだろうと思われる。この映画の中で田中絹代演じる女中こそは、原作者の幸田文に違いないのだろう。しかしこの映画の事実上の主役は山田五十鈴である。映画は彼女が運営する芸者置屋を舞台にして、彼女を中心に展開していくのである。

映画は、隅田川を行きかう船を映すところから始まる。ついで永代橋や清洲橋が映し出され、下町の狭斜が出てくるから、つい深川門前仲町あたりの色町かと思わせるが、映画の進展に伴って、日本橋の芳町あたりだと納得させる。高峰秀子が中谷昇を近くの駅まで送るシーンで隅田川が映し出されるが、そのシーンでは右手に改造前のトラス型の新大橋が見え、その左手に竪川らしい運河の入り口が見えるから、これは浜町あたりから対岸を見ているシーンだということがわかる。ということは、この二人は日本橋の芳町から両国駅へ向かって歩いているところだと納得されるのである。

映画の舞台は、その芳町の色町の一角。格式は高いと言うがあまり流行らない芸者置屋がある。そこに一人の女(田中絹代)が女中として住み込みで働くようになる。映画はこの女中の視点から置屋内外の人間模様を描き出していくのである。

女中の目から見ても、この置屋が落ち目だということは明らかだ。その原因のひとつは時代背景にもあっただろう。というもの、この映画が公開されたのは1956年、日本はやっと戦後の混乱から立ち直りかけてはいたが、まだ高度成長前、人々は芸者遊びに現を抜かす余裕を持たなかっただろう。

しかし成瀬は、そうした時代背景を強調することはない。この置屋が落ち目になっていく原因は、あくまでも置屋を運営するねえさん(山田五十鈴)の問題として取り上げられる。この余りにも人の好い女性は、水商売をうまくやっていくには向いていないのだ。つまり商売をドライに割り切れない。その結果、面倒を見ている芸妓にまで馬鹿にされる始末だし、ならず者まがいの男からゆすられもする。あげくに商売が行き詰まり、最期には店じまいを余儀なくされる。映画はその一歩手前で終わっており、山田五十鈴の零落までは踏み込んでいないが、いずれにせよこの映画が、没落を、しかも女の没落をテーマにしたものであることに違いはない。女の不幸を描くことにこだわった成瀬が、この映画では、不幸の中でも没落をテーマにとりあげたわけである。

没落と言えばドラマチックに聞こえるが、この映画は決してドラマチックな映画ではない。流行らない芸者置屋が次第に傾いて行って、ついには借金のかたに置屋を人手にゆずり、当分はそこの代理経営みたいなことをしているが、そのうちにそれも出来なくなって、置屋は他人の手によってとりあげられそうになる。しかし主人公の山田五十鈴自身はそのことを知らないまま映画が終わるというものだ。その過程で、芸妓たちの出入りや、昔の男への山田五十鈴の気持とかが描かれるが、それらは少しもドラマを感じさせない。全体が、大河の水が流れるようにゆったりと流れていくのである。

その山田五十鈴だが、この映画の中の彼女は実に色気を感じさせる。その色気は、日本の女でなければ持ちえないような特別の色気だ。山田五十鈴の顔はどちらかというとのっぺりとして、目も細い方だが、そうした表情だからこそ、こういう色気が出てくるのだろうか。目元ぱっちりした顔つきでは、こんな色気は出てこない。そんな色気が十分に発揮させられたのには、成瀬の演出も功を奏しているのだろう。

成瀬という監督は、女にこだわっただけではなく、女を美しく(あるいは生き生きと)見せることにもたけていたといえる。この映画の中の山田五十鈴には、彼女の最もよい部分が現れているし、そのほかのケースでも、女優にとって最良の部分を引きだすことに成功している。たとえば「稲妻」における高峰秀子、「あにいもうと」における京マチ子などであり、「めし」における原節子も、小津作品における彼女とは違う独特の良さがにじみ出ていた。この映画の中に出てくる杉村春子も、脇役とはいえそれなりに輝いている。おそらく杉村にとっては、小津の「麦秋」の演技とならんで最良の演技であったといえよう。

山田五十鈴の娘を演じた高峰秀子は、「稲妻」の演技をそのまま持ち込んだような演技ぶりに見えた。稲妻の彼女もそうだったが、常に現実に不満を抱き、愚痴ばかりいっているのであるが、そんな愚痴っぽさも高峰が演じるといやらしくなくなるのが不思議だ。

芸妓を演じた岡田茉利子はあまり強い印象を残さなかったが、山田五十鈴の庇護者を気取る置屋のねえさんを演じた栗島すみ子の演技はなかなかのものだった。このねえさんは、最初のうちは山田五十鈴の庇護者を気取って、色々と面倒を見てもやるのだが、最期には山田五十鈴の置屋の乗っ取りを図るしたたか者として描かれている。別に悪意からそうするわけでもなかろうが、世の中は善意だけでは渡れないということを、このたぬき婆さんを通じて、成瀬はいいたかったのかもしれない。

映画の中で唯一単調さを破るシーンは、置屋から出て行った芸妓の叔父(宮口精二)と名乗る男が押しかけてくるシーンだ。娘の高峰秀子は、そんな男をまともに相手にする必要はないというのだが、山田五十鈴の方では、なるべくことを荒立てずに穏便に収めようとする。その姿は、今の観客にはあまりに卑屈に映るに違いない。しかし昔は、それも水商売の世界では、こんなものだったのもしれない。騒ぎが大きくなって警察が介入してくると、それを最も迷惑に感じるのがほかならぬ被害者の山田五十鈴なのである。お上に世話をかけるというのは、渡世人として失格だとでもいわんばかりだ。

映画の最後近くでは、杉村春子が岡田茉利子とともに置屋から出て行き、置屋は存亡の危機にさらされる。杉村がそんなことをしたのは、男に捨てられて逆上したからなのであった。そんなつまらぬ男なんていなくなってせいせいしたでしょうと山田五十鈴に言われた杉村が、女には男が必要なのだ、といって噛みつくのである。たしかに女だけで生きていくのはむつかしい、山田もそう感じないではいられないのだ。

看板芸者たちに去られた山田五十鈴は、それでも意気消沈せずに、内弟子をとって一人前の芸妓に仕立てようとする。そんな悠長なことをしている場合ではないのに。そこへ杉村春子が舞い戻ってきて詫びをいい、もう一度置いてくれという。山田五十鈴はそれに対して、昔の因縁にこだわらずに願いを聞いてやる。彼女は限りなく優しいのだ。その優しさが、たとえ自分を没落させるのであっても、彼女には優しくあることをやめられないのだ。

こうして、山田五十鈴と杉村春子が向かい合って、三味線の連れ弾きをするシーンで映画は終わる。映画が終わったからといって、彼女たちの不幸な人生に終わりはないのだが。




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