壺齋散人の 映画探検
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女が階段を上る時:成瀬巳喜男の世界



成瀬巳喜男は「流れる」で伝統的な芸者の世界に生きる女たちを描いた後、「女が階段を上る時」ではバーの女たちを描いた。この作品が公開された1960年という年は、戦後も復興の時代を通り抜け、高度成長時代へと進みつつあった。そんな中で、世の中の風景は次第にモダンになり、男たちの遊びも従来の芸者遊びからバーやキャバレーでの遊びへと変化しつつあった。この映画は、そうした新しい遊びの場で、けなげに生きる女たちを描いたのだったが、芸者の世界がそれなりに厳しい世界であったように、バーの世界もまた厳しい、とりわけ女だけで生きていくことはむつかしい、そんなことを訴えている作品である。

「流れる」や他の多くの成瀬作品同様、この映画にも起伏にとんだ筋はない。ある一人のバーの雇われマダムの生きざまを、彼女の周囲の人間たちと絡ませながら、淡々と描いたものだ。筋に色を添えるために、男との恋情シーンも入れてはいるが、それは恋情であっても熱愛ではない。したがって心をときめかせるようなエピソードにはならない。女はその恋によって救われるわけではなく、というかそんな恋にも拘わらず、生きづらい世の中を生きて行かねばならぬのだ。

高峰秀子演じる圭子という女性は、銀座のバーの雇われマダムだ。当時銀座には数百軒のバーが軒を連ね、一万五~六千人の女たちがいた。その女たちは夜の十一半から十二時の間に店を出て帰っていく。車で帰るのは上等のほう、電車で帰るのは下等のほう、男と一緒にしけこむのは最低だと紹介される。銀座の女は男を手玉にとっても、男のおもちゃになってはいかぬというわけだろう。

圭子は根っからの水商売上りではなく、普通の店でレジをしているところをスカウトされて雇われマダムになったということになっている。バーのマダムになったのは、金のためだということらしい。圭子自身は亭主に死に別れて目下独身だが、親兄弟がぶら下がっていて、なにかと無心をされる。つまり家族の犠牲になるタイプとして描かれているようだ。

圭子は気位が高いので客に対して卑屈になることができない。その気位の高さが気に入って通ってくる客もいるが、だいたいは逃げられてしまう。そこでバーのオーナーから、体を張って儲けろと詰め寄られる。実際、彼女が体を張って男をもてなせば、商売は繁盛するだろう。彼女を口説こうと思っている男はいくらでもいるからだ。

そこで気位の高い圭子はその店をやめて、他の店の雇われマダムになる。彼女のマネージャー(中代達也)がその口を見つけて来たのだ。この男は不思議な男で、彼女の専属マネージャーの地位に満足している。彼女が店を移れば自分も移る。自分の息のかかった女の子たちも一緒に連れてくる。バーの世界にもそれなりの人間的繋がりはあるというわけだ。中代達也がそこまで尽くすのは圭子に惚れているからに他ならない。

新しい店に移ると従来のなじみ客もその店にやって来る。客の多くは猫のように店に通うのではなく、その店にいる女を目当てに通うのだ。圭子を目当てにしている男が何人かいる。なかでも中村鴈治郎演じる関西の実業家は、自分が店を出してやるから妾になれと持ちかけてくる。圭子にはこんなむさくるしい男の妾になるつもりは毛頭ない。彼女には実は好きな男が他にいるのだ。森雅之演じる銀行の支店長だ。当時の銀行の支店長といえば、毎晩女遊びをしていられる身分だったわけだ。

雇われマダムでいることにうんざりした圭子は自分で店を持つ決心をする。だがその金のあてはない。そこで妙案を思いつく。奉加帳を募って集金し、返済は出世払いということにする。何人かに声をかければ、不可能ということもない。そういうわけで奉加帳を回す一方、中代達也とともに店の下見をする。その現場で偶然昔の仲間に会う。その女は以前圭子の下にいたことがあるのだが、自分自身他の店の雇われマダムになると圭子の店のめぼしい客を横取りしてしまったのだった。だが、この女も商売がうまくいかず、借金が重なるばかり。借金の取り立てがあまりにも鬱陶しいので、狂言自殺をするつもりだなどと言う。しかし、後日その狂言自殺がどういうわけか本物になって、彼女は死んでしまう。すると間髪をおかず債権者がやってきて、彼女の残したものを何もかも取り上げるばかりか、足りない分を母親に肩代わりさせようとまでする。この世界の女は死んでも債鬼から逃れることが出来ない。結局女が背伸びしてもいつかは転ぶ、転んだが最後、何から何まで引っ剥がされる、というわけである。

圭子は過労がたたって倒れてしまう。胃潰瘍で喀血するのだ。実家に帰って静養していると、母親や兄から金の無心をされる。無心をされるばかりか、罵り合いが絶えない。この映画の中でも、高峰秀子はいつも吠えているが、母親と向かい合って吠えあうときが一番声が大きい。そのうち、店のオーナーがやってきて早く店に出ろと暗に催促する。とても静養していられる場合ではない。

ところで、この実家のある場所というのが佃島ということになっている。周知のとおり佃島は空襲を免れたところだから、古い街並みがそっくり残っている。訪ねて来たオーナーがそれを感心して、こんなところがまだあったんだねえ、という。

これと前後して、圭子はカード占いに自分の運勢を占ってもらう。自分の店を持ってうまくゆくだろうか、不安だったからだ。案の状、この先しばらくは商売運が向いて来ないと言われる。一方意外なことに近く縁談があると言われる。彼女が好きな男は森雅之演じる銀行員なのだが、その男には妻子がある。いったいどんな縁談なのか、と彼女は心の騒ぐのを覚える。

占い師の言うことを聞いて、結局店を持つのはやめ、もとのバーに行くようになる。そこへ加藤大介演じる中小企業主が足繁くやってきて、ついには彼女のアパートまで来て愛の告白をする。彼女はこんな男はタイプではないのだが、事の成り行きが占いのとおりなのですっかりその気になり、この男との結婚を決意する。ところが実は、男に騙されていたということがわかる。占いを信じて騙されやすくなっていたのだ。騙されて男のものになったのは一時の気の迷いのせいかもしれないが、それは落ち目になって気が弱くなっていたからだ。

だんだん自暴自棄になっていく彼女はついに森雅之に身を許す。正式な結婚はできないまでも、心の支えになって欲しいと思ったからだ。ところがその相手は、大阪への転勤が決まって自分の前から姿を消すという。圭子にとっては、ダブルパンチのようなショックだ。だがショックに打ちのめされてばかりもいられない。人間は、生きている限りは何かをし続けなければならないからだ。とうわけで圭子は、気に染まない世界に舞い戻らざるをえない。

さきほども触れたが、この映画の中の高峰秀子はつねに吠えまくっている。だいたい成瀬映画に出てくる高峰秀子は吠えていることが多いのだが、この映画の中ではその吠え方が一段と迫力を感じさせる。彼女が吠える相手は自分の母親であったり、兄であったり、あるいは自分をおもちゃにしようとするスケベな男たちであったりするわけだが、相手の違いに応じて、それぞれニュアンスの異なる吠え方をする。通常吠える女というものは魅力に欠けるものだが、高峰秀子の場合にはそうではない。彼女の吠え面はなかなかの色気を感じさせるのだ。打ちひしがれても必死になっているから、そんな色気のある吠え面になるのだろう。




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