壺齋散人の 映画探検
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放浪記:成瀬巳喜男の世界



成瀬巳喜男の映画「放浪記」は、林芙美子の同名の小説を映画化したものである。成瀬は林の小説が気に入っていたようで、「めし」を手掛けて以来、「稲妻」、「妻」、「晩菊」、「浮雲」と立て続けに映画化したのだったが、「放浪記」はその仕上げとも言うべき作品だ。林芙美子という小説家と成瀬巳喜男という映画作家が、しっくりと溶け合って、一本の美しい映像芸術に結晶したといったところだろうか。

周知のように「放浪記」は非常に人気の高かった小説で、成瀬以前に二度映画化されているし、舞台やテレビでも繰り返し取り上げられた。なかでも菊田一夫の脚本で森光子が芙美子を演じた舞台は、記録的なロングランを続け、演劇ファンのみならず、多くの人々の支持を集めてきたところである。

その森光子の舞台から伝わってくるのは、逆境を力強く生き抜き、その甲斐あって世の中に認められる小説家の卵のけなげな物語ということになっており、時には涙を交えながらも、基本的には明るく前向きに生きる女性が描かれる、というもので、これは成瀬以外の映画やテレビドラマにおいても同じような事情だったようだ。(というのも、筆者は森光子の舞台や成瀬以前の映画をみていないからなのだが)

ところが成瀬は、そのようには描いていない。映画の全体的な印象は、明るく溌剌としているというよりは、暗くてじめじめしている。主人公の林芙美子自体が、無器量で性格もよくない、どちらかといえばマイナーな印象の人間として描かれている。これは、作家の卵の成功物語と言うよりは、世の中に踏みつけられ、ぶつぶつと愚痴をいいながら、その日その日をなんとか生き延びている女の物語と言ってよい。この女はたまたま作家として成功するが、それはこの映画にとっては本質的なことではない。本質的なのは、戦前の封建的な日本社会の中で、女が一人で生きていくことの難しさにある。その難しさを、余り饒舌を交えずに淡々と描く、それがこの映画の目的なのだ、そういっているように見える。

その辺の事情は主演の高峰秀子も十分に理解していたようで、映画評論家佐藤忠男との対談の中で、次のように語っている。この作品が公開された時、世間の評判はよくなかったが、それは主人公の林芙美子が醜く描かれたことにあったと思います。それは自分が意識的にそう演じたからなのですが、そう演じたのにはわけがある。林芙美子という女性は次々と男に捨てられ、また周りのみんながよけて通ったというが、それは彼女にいやなところがあったからだ、そうでなければこんなに足蹴にされてばかりではないはずだ。そこで私は、姿勢も猫背かげんにして、いつもうつむいて歩くことで、意識的に林芙美子を醜い女として演じたのです、と。

高峰秀子は非常に頭のよい女優であったから、林芙美子という作家の素顔を見抜くとともに、監督である成瀬巳喜男の意図も正しく読み取ったということなのだろう。

このようにこの映画は、「放浪記」を取り上げた他の多くの作品に比べて、非常にユニークでもあり、また大衆受けのするところも少なかったのだと思うが、映画作品としては、独自の輝きを持っているのだと思う。

映画は少女時代の一齣から始まる。少女の芙美子が行商する両親に手を惹かれてあちこちをさまよい歩く。両親は行商と言うより門付芸人を思わせる。父親が警官に拉致されて交番に連れて行かれ、そこで芸をしろと命じられる。父親は情けない顔をして下手な歌をうたう。それを聞きながら巡査どもが腹を抱えて笑う。父親がなぶりものにされているのに腹を立てた少女の芙美子は、巡査どもに向かって「ばかたれ」と叫ぶ。そんな娘を見て、母親の田中絹代はうろたえるばかりなのだ。

芙美子が警官を罵る場面はもうひとつ出てくる。放浪して木賃宿にいるところを、一人の女が逃げてきて匿ってくれと言う。その後から刑事たちが踏み込んできて、淫売を差し出せという。芙美子は刑事に向かって、ここには淫売などはおらん、といって罵るのだが、罵ったからといってなんとかなるものでもない、彼女も一緒に豚箱に連れていかれるのである。

このように、この映画の中では、芙美子は権力に反抗する女としても描かれているが、しかしその反抗は情緒的かつ一時的な気まぐれで、長続きするたちのものではない。不合理な現実を前にして、怒りを覚えるのだが、その怒りは一時的な痙攣のようなものであり、明確な形をもったものではない。彼女は世の中に反抗することもあるが、基本的には世の中をこんなものだと受け止めて、それに流されて生きているのである。

こんな具合であるから、この映画の中の芙美子も、次々と男に騙され、こけにされる一方、飲み屋の女給となって低劣な男たちを相手に常にぶつぶつと愚痴を言ったりするのであるが、そんな自分が不幸だとも考えない。まして社会が悪いのだとも考えない。自分は決して幸福だとは言えないかもしれないが、それでも好きな小説を書きながら、何とか世の中を渡っている。もしかしたら書いた小説は屑になるだけのことかもしれないが、それはそれでよいではないか。少なくとも自分の好きなように生きている間は、生きている甲斐があるというものだ。そんな達観に立っているかのような生き方、それが林芙美子と言う生き方だ。良い悪いではない、そういう生き方もあるということだ。そうこの映画は言っているようなのである。

ともあれ、この映画の中の芙美子は愚痴ばかりこぼしている。愚痴というものは、何かに不満があるから出るのだろうが、芙美子の場合にはその不満がどこにあるのかが明確ではない。もしも明確な対象に不満があるなら、それは批判という形をとるはずだが、芙美子の場合には批判にはならない。愚痴で留まるのである。だからあまり格好良くない。愚痴ばかりこぼしている人間は、男でも女でも、鬱陶しいものだ。鬱陶しいから、愛する男からも愛想を尽かされ、周りの人々をイライラさせるのだろう。

一人だけ、芙美子に対してイライラしない人間が出てくる。加藤大介だ。彼は芙美子にすっかり惚れ込んで、いろいろと親身になってくれる。だが芙美子の方ではそれに応える気持ちにはなれない。彼女はイケメンが好きで、男はハンサムでなければならない。というよりハンサムな男を見ると、コロッと参ってしまうのである。

この映画の中では、仲谷昇と宝田明がそのハンサムな男を演じ、芙美子を食い物にしたり、足蹴にしたりする。芙美子は何故自分がそんな目に合わねばならないのかわからない。というより、自分自身がわかってないのだ。自分のいやらしさが他人をイライラさせる、そこのところがわからないから、彼女はいつもわけもわからぬまま、虐げられていると感じるのだ。

映画は、作家として成功した晩年の芙美子も映し出している。芙美子は田舎の母親を、東京の立派な家に呼び寄せて、綺麗な着物を着せ、のんびりとさせている。そこへ加藤大介がやってきて、母親や芙美子と世話話をする。このシーンの芙美子は、いささか人間として充足した表情をしている。人気作家となって毎日執筆に追われて忙しい彼女は、もう二晩も寝ていないといって、和机に凭れかかってうとうととする。そこへ小林桂樹演じる内縁の夫が毛布を掛けてやる。彼は、いつか刑事に踏み込まれた木賃宿で、たまたま居合わせた男である。この男のことも、芙美子はハンサムだと感じたのだろう。

うとうととする芙美子の眼がしらに、少女時代の思い出が甦ってくる。行商する両親と共に、津々浦々を巡って歩く放浪の日々の思い出だ。海に見とれていた少女の芙美子ははっと我に返り、心配そうに振り向いて待っている両親のもとに駆け寄っていく。

それは彼女の運命の原点だった。運命というものは、自分で選ぶことはできない。できるのは、それを生きることだけだ。そんなことを感じさせるシーンだ。




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