壺齋散人の 映画探検
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生れてはみたけれど:小津安二郎の世界



「生れてはみたけれど」は、小津安二郎のサイレント映画の中でも、もっともすぐれた作品だということになっている。サイレント映画というのは、複雑な物語性や微妙な感情表現には向いていない反面、映像の抒情性や様式的な身体表現と言った点に優れている。つまり、トーキーではうまく表現できないようなことを、自然に表現できる利点がある。そうした利点を生かしたことで、この作品は独特の輝きを持つに至ったのだろうと思われるのだ。

この作品のテーマは、子どもの目から見た大人社会の批判だ。子どもは自分の父親が一番偉いと思っていたのに、その父親が他の大人にペコペコしているところを見せつけられて幻滅する。父親は子どもたちに向かって日頃から、一生懸命勉強して偉くなれと言っているくせに、自分ではペコペコ頭を下げているではないか、というのである。ところが子どもたちは子どもたちで、自分たちの中に序列を作って、大人と同じようなことをしている。時には権謀術数を弄して他人を蹴落とすようなこともする。つまり知らず知らず大人の世界のコピーを演じているわけだ。そうした二重のおかしさを、この映画は表現しているのであるが、それが言葉ではなく、身体の動きで表現される、そこからサイレント映画独特の味わいが生じて来るというわけなのだ。

舞台は東京近郊の長閑な町。一両だての列車が走っているのは、池上線らしい。そこにサラリーマンの一家が引っ越してくる。すると近所に住んでいる悪餓鬼どもが、この家の二人の息子を捕まえていじめようとする。いじめられるのがいやで、息子たちは学校に行かない。原っぱに寝そべって習字の練習をしたり、母親に持たされた弁当を食ったりして時間をつぶすのだ。心配した先生が父親(斎藤達雄)に息子たちの不登校を知らせる。父親はびっくりして息子たちを叱る。それでも息子たちはいじめられるのがいやで、学校には行きたくない。いじめの問題は、この頃からそれなりに深刻だったわけだ。

この悪餓鬼どもの動きを見ていると、かつての日本の子どもたちの間に成り立っていた文化のようなものを思い出させられる。広々とした原っぱを餓鬼どもの群れが走り回る。その群れは、大将を筆頭にして様々な年齢層の子どもから構成されている。一番小さな子供の背中には、「お腹を壊していますので、食べ物を与えないでください」と書いた紙が貼ってある。この子供は、よく人から物を貰って食ってはお腹を壊すのかもしれない。

この悪餓鬼どもにつかまった兄弟は、遊んでいたおもちゃと食っていたパンを奪われる。そのパンを、群れの中の子どもたちが次々に回し食いする。一番小さな子供もその御相伴にあずかることが出来る。おそらくこのパンを食ったくらいでは、腹を壊すことはないだろう。

さて、二人の兄弟にとって幸いなことが起こる。出入りの酒屋の丁稚の力を利用して、群の餓鬼大将を懲らしめることに成功するのだ。それがきっかけになって兄弟たちは悪餓鬼どもの社会に入り込んでいくばかりか、自分が大将格に収まったりする。

群のなかのある子供の親は、兄弟の父親の上司だった。その家である晩活動写真の上映会が催されるというので、兄弟も誘われて見に行く。ところがその撮影会には上司の会社の人たちも招かれていて、その中に兄弟の父親も含まれていた。父親は上司に向かって頻りにおべっかつかいをしている。そればかりか、活動写真の中では道化役を演じさせられ、上司に向かって卑屈に脂下がっている姿が映し出されていた。それを見た息子たちはショックを受ける。自分たちは上司の息子よりも偉いのに、何故父親は上司より偉くないのか、それが面白くないというわけなのだ。

家に戻った兄弟は、父親に向かって総攻撃をする。地団太踏んでわめき騒ぎ、父親を「弱虫、意気地なし」といって罵る。罵られた父親は切なさそうな顔つきをし、母親(吉川満子)はうろたえて、「いい子だから、おだまり」と諭す。ちょっと残酷な場面だ。

ついに息子たちはハンガーストライキに突入する。「ご飯を食べてやるのをよそう」というのだ。まるで飯を食うことが、子どもの親に対する恩恵であるといわんばかりだ。この辺は、フロイトの子どもたちが排泄物を親への贈り物としたのに、ちょっと似ているかもしれない。フロイトの子どもたちは便秘になることで排泄行為を止め、そのことで親を懲らしめようとしたのに対して、小津の子どもたちは飯を食わないことで親を懲らしめようと思ったわけだ。

しかしハンガーストライキはそう長くは続かない。腹が減ってくるからだ。息子たちは空腹を抱え、ついに目の前に差し出されたおにぎりに降伏してしまう。そんな子どもたちに向かって父親は、和解の言葉をかける。まず弟の方に、「大きくなったら何になりたい?」と聞く。弟は「中将」と答える。何故中将なのかと父親が聞くと、大将はお兄ちゃんのためにとっておくのだ、と答える。大人同様子どもの世界でも、序列は大事にしないといけないというわけなのだ。

仲直りした親子は通勤通学のために一緒に家を出る。すると上司の車がやってきて、踏切の手前で子どもをおろし、父親は一服つける。それを見ていた二人の息子は父親に向かって、「お辞儀をしたほうがいいよ」と進める。息子たちにもようやく、序列というものが理解できるようになったというわけだ。

この映画には当然のことながら、ところどころに差しこまれる字幕を除いては、言語の情報は一切ない。すべてが身体の動きや顔の表情で表現される。それ故身体の動きをどう表現するかは、死活的に重要なことだ。時には必要以上に大袈裟に、時には不自然なほど穏やかに。つまり身体の動きにメリハリをつけることが肝心なことになる。

この映画の場合、二人の兄弟の動きが、画面のリズムを支配している。小津は、二人の人物を映す場合、それを相似的な姿勢で映すことにこだわったが、それがこの映画の中でもよく出ている。兄と弟は互いに相手のコピーであるかのように、相似的な姿勢にこだわるのである。そのもっともいい例は後ろ姿だ。後ろ向きに並んで歩いている姿は、典型的な相似形となりやすいので、好んで取り入れられている。それ故、相似形がくずれそうになると、すぐにそれを回復しようとする動きが加わる。序列からいって、弟の方が兄と同じ姿勢を保つように努力するということになる。

こんなわけで、この映画には色々な仕掛けが込められている。




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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013
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