壺齋散人の 映画探検
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早春:小津安二郎の世界



「晩春」、「麦秋」と、季節感に満ちた題名の作品を作った小津安二郎は、「お茶漬けの味」と「東京物語」を挟んで、「早春」を作った。しかし「晩春」と「麦秋」とがある種の青春映画であったのに対して、これは夫婦の危機の物語である。その点では、「晩春」や「麦秋」の延長ではなく、「お茶漬けの味」と同じ系列に属する作品だ。「お茶漬けの味」でも夫婦の危機と和解が描かれていたが、この作品でもそれがテーマになっているからである。

しかし少し違うところもある。「お茶づけの味」では、夫婦の危機を作り出していたのは妻の方だった。倦怠期に入った妻が、夫のなにもかもが鼻について、愛想を尽かすのに対して、夫の方がどぎまぎするという話だった。そして夫婦の和解はふとしたことがきっかけとなって突然やってくる。それは妻の方で、自分の態度の理不尽さを自覚したことの結果だった。

この映画では、夫婦の危機は夫の不倫によってもたらされる。夫の池部良には、通勤で知り合った気の合った仲間がある。その仲間のひとりに「きんぎょ」とあだ名された若い女性がいるのだが、池部良はこの女性に誘惑されて不倫の行為をしてしまうのである。それを知った妻の淡島千景が、烈しく嫉妬し、ついには家出してしまう。夫婦関係の危機である。その危機を乗り切るきっかけとなったのは、夫の方からの謝罪の意思表明だった。夫は自分から不倫の関係を解消し、地方の事務所に転勤していく。それを見ていた妻も、ついに夫を許す気持になって、夫を追いかけてやってくるという結末になっているのだ。

映画の画面は蒲田駅周辺の景色を映すところから始まる。これは蒲田から東京駅近くのオフィスに通うサラリーマンたちの物語なのだ。この映画が作られたのは1956年で、戦後10年以上もたっているが、蒲田駅の周辺はいかにも田舎じみたたずまいで、今日の蒲田からは想像もつかないくらいだ。蒲田駅自体も田舎の駅のようであって、違うところは大勢の人間たちがホームの上に溢れているところである。映画は、この蒲田駅を午前8時28分に出発する大宮行の始発列車を映すところから始まるのである。

どういうわけか小津は列車が好きらしく、多くの映画で列車の動く場面や鉄道の駅舎の様子を繰り返し描いている(「一人息子」と「父ありき」のラストシーン、「晩春」と「麦秋」での東海道線の車内、「東京物語」での大阪駅や尾道駅の様子など)。この映画でも、蒲田駅を出入りする列車の様子が映し出されるほか、最後の場面では、山陽線の列車が三石の駅をゆっくりと出発するところが映しだされる。つまり列車に始まり列車に終わっているわけだ。

さて物語が急展開するのは、池部良が通勤の仲間たちと江の島へハイキングする場面だ。このハイキングで池部良は、キンギョ(岸恵子)とすっかり仲良くなってしまったあげく、キンギョから誘惑されるようになるのだ。そしてついに一線を越えてしまう。そこから不倫をめぐる夫婦の危機の物語と、世間の指弾というような話が展開されていくわけである。

不倫がクローズアップされるまでに、いくつかの興味深いエピソードが挟まれる。一つは池部良の会社のなかの人間模様であり、また、池部良がかつての戦友たちと旧交を温める場面である。

池部良が勤めている会社は某煉瓦製造会社ということになっていて、本社が東京駅前の丸ビル内にあるほか、地方に営業所や工場があるということになっている。その地方営業所からかつての上司で仲人でもある笠智衆が上京し、二人は共通の知人である山村聡が経営するバーを訪ねるのだが、そこで三人が交わす会話というのが、ちょっと異様なのだ。池部良はともかく、笠智衆も山村聡も、サラリーマン生活について徹底的に悲観的な見方をしており、サラリーマンなどは早くやめてしまったほうがいいなどと、後輩の池部良に勧めるという始末なのだ。

サラリーマン生活を否定的に語らせる場面は、他にもいくつか用意されている。その一つは東野栄次郎が自分の31年間のサラリーマン生活を回顧する場面で、その中で東野栄次郎は山村聡を相手に、自分のサラリーマン生活がどんなに内容のない空しいものであったか、諄々と語り続けるのである。

もうひとつは、会社の同僚が結核で死ぬ場面で、その中で弔問に訪れた山村聡が池部良を相手に、あいつもサラリーマン生活の嫌な側面を見ないうちに死んで、かえってよかったなどと言う場面がある。それほどに、この映画ではサラリーマン生活が否定的に描かれているわけだが、その一方では、世の中は不景気であるらしく、何とかサラリーマンの職につけるようにと焦っている人々も描かれているのである。

池部良がかつての戦友たちと旧交を温める場面は意味深長なものがある。この場面で小津は、かつての戦友たちに軍歌を歌わせ、戦争を懐かしく回想させている一方で、戦争の馬鹿馬鹿しさ加減をも批判している。とくに、加藤大輔演じる戦友らが深夜に池部良の家に押しかける場面では、淡島千景は寝床を襲われてすっかり気を悪くした挙句に、さんざん醜態を見せられて、日本の兵隊はあんな馬鹿な人ばかりだったから戦争に負けたのだときつい非難の言葉を発している。

戦時中から戦争直後にかけては、小津は戦争の影を極力画面から排除しているかのポーズをとってきたわけだが、それが戦後10年たったこの映画では、正面から取り組んでいるようにも映るのである。いったいどういうわけで、そんなことをしたのか、興味深いところである。

また、この映画では、二人の間では子供がいたが、疫痢で死んだということになっている。加藤大輔らが現れて一泊した朝は、実はこの子の命日で、淡島千景は墓参りに行くつもりだったのを、夫の方が行けなくなって腹をたてる場面がある。自分の子どもの命日を忘れるようでは、父親失格だと考えているわけだが、そのことを自分の母親に向けて発散すると、母親は自分だって死んだ亭主の命日を忘れることがあると言って、娘をなだめるのである。その母親はまた、夫の不倫を非難する娘に向かって、つまらぬやきもちは焼くなと説教したりもするのである。

さてクライマックスは、池部良の仲間たちが「きんぎょ」を呼び出し、彼女を吊し上げることから急転する。その吊るし上げの中で、大の男たちが「きんぎょ」に向かって散々説教を垂れるのであるが、その説教と言うのが、いかにも男の身勝手さを感じさせているようで、要するに馬鹿げた屁理屈にうつるのである。「父ありき」の中でも、父親との同居を望む息子に向かって、父親が説教を垂れる場面があるが、その際に繰り出された説教と言うのが、古臭い封建道徳なのであったが、それと同じで、この場面における男たちの説教も、古臭い封建道徳の域を出ない。その道徳とは一言でいえば、他の女の亭主には手を出すな、つまり姦通はまずいというものであった。

思わぬ吊るし上げを食って気が動転した岸恵子は、深夜にかかわらず池部良の自宅に押しかけ、外へと連れ出す。そして自分の気持を諄々と訴えた挙句に、この気持に応えてくれと迫るのであるが、池部良のほうは、事態がいよいよ抜き差しならぬ泥沼にはまりつつあるのを恐れて、岸恵子との関係を解消しようと考え始めるわけである。しかしそう考えた時には時すでに遅し、怒り狂った淡島千景は黙って家を出てしまうのである。

池部良には、地方への転勤話が前後して出ていた。岡山県の三石にある工場への転勤である。池部良は結局この転勤話に乗ることで、岸恵子との関係を解消しようとするのである。

三石に移動する途中、池部良は大津の営業所に勤務している笠智衆を訪ねる。ふたりは琵琶湖のほとりで話し合う。池部良が今までのいきさつを白状すると、笠智衆は、妻ほどあてになる存在はないと言って、妻との和解を強くすすめる。その二人の傍らを、ボートのクルーが通り過ぎていく。京大のボート部だという。笠智衆もかつてはこのボートを漕いだと言って、昔をなつかしがって見せるのである。

三石は、山陽線沿線の小さな町で、姫路と岡山の中間にある。地図で見ると今でも、近くにはレンガ工場があることになっているから、この映画が作られたときにもその工場はあったのだろう。林立する煙突からはものすごい勢いで黒煙が出ている。いまでは考えられない光景だ。

そこで間借りをして住んでいる池部良のところへ、ある日妻の淡島千景が訪ねてくる。妻は和解する気持で来ている。実は仲人の笠智衆から手紙が来て、傷はまだ小さいうちに塞いでしまった方がよいと忠告されたのだった。その妻に向かって夫の池部良が謝罪して許しを請う。妻はもういわないでという。なにもかも忘れてやり直しましょう。そういう言葉は、「風の中の牝鶏」の中では夫の佐野周二がいっていたのだったが、ここでは妻の方が言うわけである。




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